1945年7月19日の三田空襲を行ったのは、どの飛行機だったのでしょうか。長いあいだ、地元には「グラマン」「艦載機」という記録が残ってきました。2026年4月、神戸新聞明石総局の杉山雅崇さんが、米軍の記録を探して分析し、「米陸軍航空軍第506戦闘機連隊のP-51がほぼ間違いない」という結論を発表しました。このページでは、その分析のあらましをわかりやすく紹介します。
※このページは、杉山雅崇さんの分析(2026年4月19日付)をもとに、SUNPEACEが要約したものです。分析の内容は杉山さんの資料にもとづいています。
三田空襲の概要
1945(昭和20)年7月19日午前、米軍の戦闘機2機(諸説あり)が、旧有馬郡三輪町などを機銃で撃ちました。下校中だった児童らも無差別に撃たれ、児童4人と女性1人が亡くなり、数戸で火災が起きました。現在の三田市域で、空襲による死者が出たのはこの日だけです。それでも、実態ははっきりしないままでした。
地元の記録は食い違っていた
地元に残る主な記録では、時間も機数も、記録ごとに違っていました。
| 記録 | 時間帯 | 機種 | 機数 |
|---|---|---|---|
| 中嶋義秋「空襲の罹災記」(1973年) | 午前11時20分 | 艦載機グラマン | 2機 |
| 三輪区史(1998年) | 午前9時半〜9時45分 | 艦載機(区史の著者はTF38と推定) | 1波4機、2波8機 |
| 三輪小学校創立百年記念誌(1973年) | 午前9時半以後 | 艦載機グラマン | 1波4機、2波8機 |
| 三田市史(2012年) | 記載なし | 米軍機 | 2機 |
三輪区史と百年記念誌では、「播州(兵庫県西部)の方から飛んできた」という証言が一致しています。当時児童だった人たちは、「朝、警戒警報もなくいきなり空襲警報が鳴り、臨時下校になって、帰る途中に空襲に遭った」と口をそろえて話しています。
艦載機ではなく、P-51ではないか
杉山さんは、まず艦載機を疑いました。ところが、米海軍の空母艦載機による日本空襲を調べた資料には、この日の大規模な出撃の記録がありませんでした。そこで、陸軍航空軍のP-51を疑いました。
工藤洋三さんの論文によれば、硫黄島から出撃した第7戦闘機集団の第506戦闘機連隊と第15戦闘機連隊のP-51が、7月19日に伊丹、西宮などを目標に飛んできていました。杉山さんはアメリカ国立公文書館に問い合わせ、さらに米空軍歴史調査室から、第506戦闘機連隊のその日の任務報告書(Final mission report)を取り寄せました。
米軍の報告書からわかったこと
報告書によると、第506戦闘機連隊の3つの戦隊(第457、458、462戦隊)が、伊丹と西宮の飛行場を目標に出撃し、周辺の「臨機目標」(その場で見つけた目標)に機銃掃射を行っていました。どの報告にも「三田(sanda)」という地名は出てきません。しかし、記載から推定すると、三田に最も近づいたのは上空を守っていた第462戦隊です。報告書の「こはま」は、現在の宝塚市の旧小浜村と考えられます。
ほかの部隊が三田に来た可能性も残っています。第458戦隊は、神戸を通過したあとに東へ向きを変えて降下しており、伊丹を攻撃する前に三田を襲った可能性があります。第457戦隊は、西宮を攻撃するため大阪の北西で大きく旋回しており、そのとき三田に近づいたとも考えられます。三田を襲った部隊については、この3つの戦隊のいずれかである可能性が高い、と杉山さんは見ています。
ガンカメラ映像などを研究する市民団体「豊の国宇佐市塾」の織田祐輔さんが見つけた資料によると、第458戦隊は、この日、航法のミスで伊丹飛行場を一度見失い、現在地がわからない混乱した状態で、各自の判断で機銃掃射をしたそうです。織田さんは、三田を襲った最有力の部隊は第458戦隊だと見ています。
地元の記録と重なる点
第462戦隊は、日本軍機の撃墜を報告しています。一方、地元の記録には、同じ日に八尾から飛び立った陸軍機が三田市高平に墜落したとあります。この機体は、第462戦隊が撃墜を報告した2機のうちの1機かもしれません。
ほかの部隊の可能性は?
杉山さんは、艦載機部隊の可能性も、もう一度確かめました。
- 米海軍の艦載機:米国戦略爆撃調査団の統計資料では、7月19日の出撃はありませんでした。
- 英国の機動部隊:補給の関係で、この日は作戦行動をしていませんでした。
- 沖縄の米陸軍部隊:織田さんの研究で、この日、関西方面への出撃はなかったことがわかりました。
新聞報道とも一致する
空襲の翌日、1945年7月20日の朝日新聞(大阪版)と神戸新聞には、中部軍と大阪警備府の発表として、「午前9時ごろから1時間、硫黄島から飛んできたと思われるP-51が近畿地区に襲来」と載っていました。機種、機数、発進基地の推定は、米軍の記録とほぼ一致します。
時間には食い違いがあります。米軍の報告書では、目標上空にいた時間は午前10時〜11時です。この点について、翻訳に協力した田中まことさんは、「硫黄島の戦闘機部隊は、B-29の護衛という任務の性質上、日本時間より1時間遅いマリアナ時間で記録を書いたのではないか」と推定しています。そうだとすると、日本軍の発表と一致します。
結論:P-51で、時間は午前9時〜10時ごろ
これらのことから、杉山さんは次のように結論づけています。
1945年7月19日に三田市を襲ったのは、506thに所属する3飛行隊のいずれかのP-51でほぼ間違いない。織田さんの史料によれば、その中でも458thの可能性が濃厚ではないか。また、諸説あった空襲の時間帯は午前9時〜午前10時ごろの間ではないか。
(506thは第506戦闘機連隊、458thはその中の第458戦隊を指します。)
手記や証言との関係
中嶋義秋さんの手記には「グラマン」「午前11時20分」と書かれています。これは、当時の人々が見聞きし、手記に書き残したことです。杉山さんの分析は、その後にわかった米軍の記録とつき合わせて、機種や時間を見直したものです。どちらも、あの日に起きたことを伝えようとする大切な記録です。劇「三田空襲を忘れない」の「グラマン」という呼び名は、手記にそって使われています。
