中嶋義秋さんは、空襲の当日、三輪町役場に勤めていた職員です。空襲から28年がたったときに、「忘れることのできない空襲の日」を「書き残して置きたい」と、手書きの記録を残しました。表紙には「昭和二十年七月十九日 三田 三輪 空襲 罹災記」とあります。全体で約7ページです。
手記からわかること
- 午前11時20分ごろ、飛行機の爆音とともに役場前の電柱の碍子が割れ落ち、職員が避難しました
- 役場では午前中に警戒警報が出ていたものの、いったん解除され、安心して会議を続けていたところでした
- 中嶋さんは「高次」地区で起きた火災を見て町長に報告し、自転車で急報に走り回りました
- 高次の農家が4戸全焼するなか、路上で二人の男の子が亡くなっているのを見つけ、保護者へ知らせました
- 犠牲になった方々への思いと、空襲のことを書き残しておきたいという思いが記されています
手記の原本はPDFでは公開せず、この記事で要点と引用を紹介します。劇「三田空襲を忘れない」の「中嶋」は、この義秋さんをモデルにしています。
※手記は、機種を「グラマン」、時刻を午前11時20分と記しています。これは当時の人が見聞きした記録です。その後の米軍記録の調査では、機種は P-51 とする説が有力で、時間帯も午前9時〜10時ごろとされています。くわしくは杉山雅崇さんの分析と「三田空襲とは」をご覧ください。
