平和活動 SUNPEACE

敵から友へ――西浦道雄さんは、なぜアメリカの人と絆を結んだのか

あらせん(荒井隆一)あらせん
この記事の目次
  1. はじめは、許せる相手ではなかった
  2. 動かしたのは、お母さんのことば
  3. ふだんどおりに暮らしたこと
  4. ほかの体験者の願いと、つながるところ
  5. 授業で使える問い
  6. 関連記事

西浦道雄さんは、三田空襲で家を焼かれました。当時、三輪国民学校の4年生です。その西浦さんが、戦後、アメリカの人を家族として迎え、自分もアメリカへ渡りました。歩みの全体は西浦さんの証言の記事で紹介しています。この記事で考えたいのは、ひとつの問いです。敵だった国の人と、なぜ絆を結ぶことができたのでしょう。

はじめは、許せる相手ではなかった

家が燃えた日のことを、西浦さんは「私の人生で一番、恐怖に残る事件でした」と話します。パイロットの顔も覚えていて、「殺される」という気持ちだったといいます(動画 13:03ごろ〜)。動画で紹介された新聞記事にも、パイロットの顔に復讐を誓った少年だった、と書かれています(動画 23:02ごろ〜)。

ですから、昭和31年にアメリカの女性を受け入れる話が来たときも、自分から望んだわけではありません。お父さんは怒って反対し、西浦さん自身も「びっくりした」と話しています(動画 20:07ごろ〜、23:38ごろ〜)。絆は、はじめからあったものではありませんでした。

動かしたのは、お母さんのことば

家族を動かしたのは、お母さんでした。これからは先進国に学ばなければ、「負けたら負けたんで、いいやないか」と言って、お父さんを説得したのです(動画 20:24ごろ〜)。そのお母さんは、戦争中、地域の国防婦人会の会長をつとめていた人でした(動画 25:39ごろ〜)。国を守るために先頭に立っていた人が、戦後、相手に学ぼうと言ったのです。

ふだんどおりに暮らしたこと

やって来た女性は、「私はあんたとこの家の家族になります」と言ったそうです。西浦さんの家は特別なもてなしをせず、ふだんどおりに過ごしました。女性は8軒の農家に滞在して、ふつうに接してくれたこの家がいちばんよかった、と喜びました(動画 22:09ごろ〜)。

西浦さん自身は、平和とは何かは「永遠のテーマ」で、わからなかったと話しています。その上で、「うちの家に外国人が来たことによって、絆が生まれます」と語りました(動画 26:20ごろ〜)。空襲で「幸いにも生き残った」と話す西浦さんは(動画 13:41ごろ〜)、生き残った命を国際交流のために使おうと決めたと、動画の説明文は伝えています。

ほかの体験者の願いと、つながるところ

SUNPEACEの動画に出てくる体験者の方々は、最後にそれぞれの願いを語っています。

岸田達男さんは2024年、「多くの人が、声を上げられる、世の中」であってほしいと語りました(動画 31:40ごろ〜)。

2023年の座談会では、内田昇さんが、戦争が終わったときはもう「戦争は起こらないと思ってたんですよ」と話し(動画 44:34ごろ〜)、志儀喜代美さんは「人の命ほど大事なものはないと思うんですよ」と語りました(動画 47:14ごろ〜)。

みなさんの願いは同じです。戦争を二度と起こさないこと。西浦さんは、その願いを実現するために必要なことを、こう言い表しました。「平和っちゅうのはね、勝手にできるものじゃないです」。そして、口だけで平和と言っても絶対にならない、絆を作ることが大きなポイントだと続けます(最初の動画 34:11ごろ〜)。

最後のことばは、新型コロナで人と人が離れていた2020年の夏に語られました。「やっぱり、接することが、一番です」(最初の動画 42:59ごろ〜)。西浦さんは、そのあと亡くなられました。心からご冥福をお祈りいたします。

授業で使える問い

  • もし自分がこのときの西浦さんの家族だったら、お父さんとお母さんのどちらの気持ちに近いと思いますか。それはなぜですか。
  • 西浦さんは「接することが、一番」と話しました。意見や立場のちがう人と「接する」ために、自分たちの学校や町でできることは何でしょう。

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あらせん(荒井隆一)
この記事を書いた人 あらせん(荒井隆一)

小学校校長。書家。ことわざの達人。SUNPEACE 理事長、情熱教師塾 塾長。第63回読売教育賞 最優秀賞。著書『いじめ2.0〜新しいいじめとの戦い方〜』。

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