SUNPEACEは、三田空襲の体験者に話をうかがい、その様子を動画に残してきました。この記事では、2024年7月13日に撮影した岸田達男さんのインタビュー「三田空襲 岸田達男さんの体験『あの日、あの場所で』」(約35分)を紹介します。岸田さんが当時通っていた学校(現在の三田小学校)から、空襲にあった場所まで、実際に一緒に歩きながら話を聞いています。
この動画でわかること
- 空襲警報が鳴ると、子どもたちは運動場に地区(「区」)ごとに並び、号令とともに一斉に下校していたこと
- 7月19日、下校の途中で爆音が近づき、低い空から機銃掃射が始まったこと。岸田さんはその場で頭を突っ込むようにして身を守った
- 近所の女の子が、壁を突き抜けた弾で足にけがをしたこと
- 戦争中の学校では、運動場が畑になり、勉強よりも軍隊式の訓練や体づくりが中心だったこと
- 「戦争は悲惨なもの。二度と起こしてはならない」という、岸田さんから今の私たちへのメッセージ
証言者の紹介:岸田達男さん
岸田達男さんは、1945年7月19日の空襲を、当時5年生として体験しました。三田の歴史の語り部の第一人者として、戦争の体験をさまざまな形で語り伝える活動を続けてこられた方です。SUNPEACEの動画への出演は、2021年に続いて2度目です。聞き手はSUNPEACEの大向勲さんです。
証言の要約(時系列)
戦争中の学校のくらし
- 表の運動場は、ほとんど全部が畑になっていました。植えたのはさつまいも・かぼちゃ(南京)・枝豆などで、いちばん多かったのはさつまいもでした。長い間踏み固められた土を、子どもたちがつるはしで掘り、手に豆を作りながら畝を作りました(動画 4:26ごろ〜)
- 採れたものは自分たちのものではなく、学校のものでした。給食はなく、だれもがおなかをすかせていた時代でした(6:16ごろ〜)
- 登校すると、天皇・皇后の写真をまつった「奉安殿」に頭を下げ、皇居のある東の方向に向かって拝礼しました。下校のときも同じでした(9:15ごろ〜)
- 戦争の終わりごろになると、勉強はそっちのけになりました。体育では軍隊式の歩き方や体操、なわとびなどで、兵隊として戦える体づくりがすすめられました。教科書の中身も、軍艦や戦闘機など、軍事に関わるものに変わっていきました(23:28ごろ〜)
1945年7月19日
- 警戒警報、そして空襲警報が鳴るころには、遠くから爆音が聞こえていました。子どもたちは教室から出て運動場に整列し、住んでいる地区ごとに並びました。1学年は約200人で、教室に入りきらない子が廊下にいるほどでした(10:22ごろ〜)
- 号令がかかると、みんなで半分かけ足のように下校しました。空襲警報での下校はそれまでにも何度もありましたが、この日は「いつもと違う」感じがあったといいます(15:12ごろ〜)
- 大池の堤の下あたりまで来たころ、爆音がだいぶ近づいてきました。岸田さんは走って逃げました(18:04ごろ〜)
- このころ、三輪小学校の児童が撃たれました。低い空からの機銃掃射が始まったとき、岸田さんはその場で頭を突っ込むようにして身を守りました(19:13ごろ〜)
- 飛行機は学校の方から低く飛んできました。岸田さんは頭を伏せていて見えませんでしたが、友だちの中には「飛行士の顔が見えた」と言う子もいたそうです(20:00ごろ〜)
- 岸田さんは「学校のあたりで撃っていたら、私の命はなかった」と振り返っています(21:06ごろ〜)
- 近くの家にいた女性は、壁を突き抜けた弾が足に当たりました。出血がひどく、近所の内科医院では手当てができなかったため、今の中央病院(当時は傷病兵のための病院)で止血を受けたそうです。年をとっても痛むと話していたといいます(21:24ごろ〜)
- 「空襲警報のサイレンの音、艦載機の爆音、機銃掃射の音が、頭に焼き付いている。一生忘れない」(22:36ごろ〜)
※岸田さんは、飛行機を「艦載機」と呼んでいます。これは体験した方の当時の受け止め方です。杉山雅崇さんの調査で、三田を襲ったのは硫黄島から飛来した米陸軍のP-51戦闘機だとわかっています。詳しくは「三田空襲とは?」をご覧ください。
終戦と、いま伝えたいこと
- 8月15日、ラジオで玉音放送がありましたが、この日はちょうど亡くなった弟の葬式で、放送は十分には聞き取れなかったそうです(27:30ごろ〜)
- 子どものころに受けた教育は軍国主義で、「お国のために死ぬのが当たり前」と思っていました。それが、戦争に負けた日を境に180度変わりました(30:44ごろ〜)
- 「戦争は悲惨なものです。このようなことを二度と起こしてはならない。多くの人が平和のありがたさを実感し、戦争を起こしてはならないと声を上げられる世の中であってほしい」(30:28ごろ〜)
動画を見る
動画の最後には、2024年7月19日、郷の音ホールの「平和の鐘」を鳴らす場面も収められています。
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