1945(昭和20)年7月19日の朝、三田の子どもたちは、ふだんと同じように学校へ行きました。このページでは、その日のできごとを、体験した方々のことばをつないで、朝から順にたどります。
語ってくださった方は、それぞれ別の場所で、あの日をむかえました。80年前の記憶なので、話が少しずつ違うところもあります。空襲が起きた時刻は、午前9時45分ごろです。記録や証言の違いは「証言によって違うところ」に、空襲の全体は「三田空襲とは?」にまとめています。
このページに登場する方
- 三田国民学校(いまの三田小学校):岸田達男さん(5年)、脇田孜さん(4年)、志儀喜代美さん・中後茂さん・内田昇さん(3年)
- 三輪国民学校(いまの三輪小学校):西浦道雄さん(4年)、中嶋宏次さん(2年)
- 幼稚園:仲畑直さん(5歳)
- 三輪町役場:中嶋義秋さん(宏次さんのお父さん。のちに手記「空襲罹災記」を書いた方)
朝――晴れた夏の日
- 西浦さんは、「暑い日」だったと覚えています(西浦さん 2020年の動画 08:11ごろ〜)。別の体験者の男性も、ピースラリー2025で流れた映像の中で、「その日はね晴天でございました」と話しています(ピースラリー2025 1:12:39ごろ〜)
- 志儀さんは、この朝、白い肩掛けカバンを持って家を出ました。お母さんが帯の芯をほどいて作ってくれたカバンで、できあがったのは前の晩でした。白は目立つので、ふだんはよもぎの汁で草の色に染めます。染める間がなかったので、お母さんは「今日だけこれで持って行き」と言って持たせてくれました(志儀さん 2022年の動画 29:39ごろ〜)
- 空襲警報で下校することは、それまでにも何度もありました(岸田さん 2024年の動画 16:41ごろ〜)。一方で、7月19日までは、三田がねらわれることはないだろうという感じがあったと、脇田さんは話しています(「あの日、あの場所で」 25:24ごろ〜)
警報――そして、帰ることになった
岸田さんは、警報のしくみを、敵の飛行機が遠くにいるときが警戒警報、すぐ近くまで来たときが空襲警報、と説明しています(岸田さん 2024年の動画 10:38ごろ〜)。
- 三田国民学校:志儀さんは「いきなりね、空襲警報に変わったように思います」と語ります(第1回 聞く会 54:27ごろ〜)。岸田さんは、空襲警報が鳴るか鳴らないかのころに、遠くから爆音が聞こえたと話しています(岸田さん 2024年の動画 10:55ごろ〜)
- 三輪国民学校:中嶋宏次さんは、警戒警報が鳴り、そのあと解除になったと話しています。またいつ来るかわからないので、校庭に並ぶように言われ、集団で帰ることになりました(中嶋さんと歩く動画 2:00ごろ〜)
- 三輪町役場:手記によると、警戒警報がいったん解除になり、役場では安心して会議を続けていました(中嶋義秋さんの手記)
警報の順番は、学校や人によって語られ方が違います。この点は、まだわかっていないことの一つです。
下校――地区ごとに並んで
三田国民学校
- 子どもたちは運動場に地区ごとに並び、号令で一斉に帰りました(岸田さん 2021年の動画 14:12ごろ〜)
- 岸田さんは坂を下りながら、「ちょっとねなんかいつもと違う感覚があった」と振り返っています(岸田さん 2024年の動画 17:15ごろ〜)
- 志儀さんたちは、地区ごとに決められた逃げ場所の竹やぶをめざして走り出しました(志儀さん 2022年の動画 28:31ごろ〜)
- 中後さんは学校の裏門から出ました。約30人の列でした(「あの日、あの場所で」 14:33ごろ〜、16:10ごろ〜)
三輪国民学校
- 男の子と女の子は別々に並びました(中嶋さんのトーク 1:49ごろ〜)
- 中嶋さんの列は2列で、14、15人。幼稚園の子もいっしょでした(中嶋さんと歩く動画 2:42ごろ〜、3:44ごろ〜)。その幼稚園の子の一人が、5歳の仲畑さんです(ピースラリー2025 49:35ごろ〜)
- 列の中には、安全な田舎だと思って、親元を離れて親せきの家に来ていた疎開の子もいました(中嶋さんと歩く動画 3:53ごろ〜)
- 当時の道は土の道で、幅はいまの半分ほどでした(中嶋さんと歩く動画 4:43ごろ〜)
午前9時45分ごろ――機銃掃射
飛行機は、とても低く飛んできました。機種は、杉山雅崇さんの調査で、米軍のP-51だとわかっています。体験者の話に出てくる「グラマン」は、当時の呼び方です。機数は記録や証言によって2機、8機などの違いがあり、はっきりわかっていません。
三田の町で
- 志儀さん:校門の前の橋を渡りかけたとき、飛行機の音が聞こえました。土手のくぼみに、みんなで倒れ込みました。入り口の近くにいた志儀さんは、「そこの白いカバン、早く隠せ」と怒鳴られます。その声は今も「耳の底に残ってる」と話しています。半分泣きながらカバンを抱えていると、飛行機は頭の上を通り、三輪の方へ過ぎていきました。「本当に助からへんと思いました」(志儀さん 2022年の動画 28:44ごろ〜、31:48ごろ〜)
- 内田さん:九鬼邸の前あたりで、後ろからの音に振り返ると、操縦士の顔が見えました。その前後のことは、ほとんど覚えていないそうです(「あの日、あの場所で」 8:40ごろ〜、23:43ごろ〜)
- 脇田さん:「ババババババーっていう音」が聞こえ、怖くて水路に入りました。震えながら見ていると、飛行機は木すれすれの高さでした(「あの日、あの場所で」 11:16ごろ〜)
- 中後さん:飛行機が近づき、みんなで幅2メートルほどの溝に飛び込みました。上から撃つ、大きな音を覚えています(「あの日、あの場所で」 15:31ごろ〜、31:08ごろ〜)
- 岸田さん:大池の堤の下まで来たころ、爆音がだいぶ近くなり、走りました。機銃掃射が始まったとき、頭を突っ込むようにして身を守りました。友だちの中には、飛行士の顔が見えたと言う子もいたそうです(岸田さん 2024年の動画 18:04ごろ〜)
三輪で
- 中嶋宏次さん:飛行機が見えると、上級生が「伏せろ」と言い、みんなが伏せました。伏せたまま見ると、飛行機はすぐそこまで来て、弾が雨のように降ってきました(中嶋さんと歩く動画 5:06ごろ〜)。同じ列の2人が亡くなりました。中嶋さんがいた場所とは、わずか数メートルの違いでした(中嶋宏次さんの証言)
- 仲畑さん:6年生の上級生に「入れ」と言われ、田んぼのそばの小さな水路に入りました。道の反対側にいた7歳年上のお兄さんが、弾に当たって亡くなりました(ピースラリー2025 50:41ごろ〜、51:17ごろ〜)
- 西浦さん:高次の少し小高いところで、用水路に飛び込みました。その途端に弾が飛んできたといいます。パイロットの顔まで見えました(西浦さん 2020年の動画 8:39ごろ〜、10:14ごろ〜)。「私の人生で一番、恐怖に残る事件でした」(同 13:03ごろ〜)
失われた5人の命
この日、児童4人と女性1人が亡くなりました。中嶋宏次さんがのちに描いた地図には、亡くなった方々のいた場所に1から5までの番号がつけられています。学校にいた子ども、帰り道の疎開の女の子、下校の列にいた男の子2人、そして少し離れた田んぼで農作業をしていた女性です(第1回 聞く会 6:29ごろ〜)。
三田の子どもたちも、同じ時に同じように帰る途中でした。聞き手の大向勲さんは「少しの違い」だったと語っています(「あの日、あの場所で」 17:27ごろ〜)。
半鐘――穴に残された高さ
半鐘は、火事などのときに、カンカンと鳴らして人に知らせる鐘です。三輪会館の半鐘には、弾が突きぬけた穴が残っています(第1回 聞く会 8:05ごろ〜)。
入った穴と出た穴の高さの差は、1.5センチしかありません。ほとんど真横から弾が来たことになり、飛行機がどれほど低かったかがわかります(中嶋さんのトーク 9:40ごろ〜)。
人に危険を知らせるための鐘が、撃ちぬかれていました。この半鐘は三輪会館から借りて、PEACE RALLY FINAL や聞く会、追体験ツアーで紹介してきました。手記にも、爆音とともに役場前の電柱の碍子が割れ落ちたことが書かれています(中嶋義秋さんの手記)。
飛行機が去ったあと
- 中嶋宏次さん:近くの家に逃げ込み、しばらく震えて出られませんでした。「もう大丈夫」と言われて、小走りで家に帰りました。このときは、後ろで何が起きたかをまだ知りませんでした(追体験ツアー 23:27ごろ〜、30:03ごろ〜)
- 中嶋義秋さん:高次で起きた火事を見て町長に報告し、自転車で急報に走り回りました。路上で亡くなっている2人の男の子を見つけ、保護者に知らせました(手記)
- 西浦さん:飛行機が去って外に出ると、自分の家が燃えていました。屋根はわらぶきで、その上に柴をたくさん置いていました。おばあさんが仏さまを持ち、子どもたちを連れて裏山へ逃げてくれました。遠くの田んぼにいた両親は、帰ってきて驚いたそうです(西浦さん 2020年の動画 11:11ごろ〜)。高次では、農家4戸が全焼しました
- 脇田さん:川の飛び石を渡って家に帰りました。隣の医院には、三輪の子どもたちが運ばれてきていました(「あの日、あの場所で」 12:46ごろ〜)
- 家の中で:家にいた近所の女の子は、壁を突き抜けた弾で足にけがをしました。年をとっても痛むと話していたそうです(岸田さん 2024年の動画 21:34ごろ〜)
- 線路で:止まっていた貨物列車も撃たれ、たくさんの弾が残っていたと伝えられています(追体験ツアー 30:31ごろ〜)
- 同じ日の午前10時ごろ、高平の上空で空中戦があり、日本の戦闘機が墜落して、パイロットが亡くなったことも紹介されています(第1回 聞く会 10:05ごろ〜)
その後――知らされなかったこと、続いたくらし
- 三田の子どもたちの多くは、三輪で何が起きたかを、その日には知りませんでした。内田さんも中後さんも、あとになって知ったと話しています(「あの日、あの場所で」 32:36ごろ〜)。志儀さんも、「全然、情報は入ってきません」と語り、知ったのはずいぶんあとだと思うと話しています(第1回 聞く会 1:01:05ごろ〜)
- 家を失った西浦さんの家族は、雨もりのする小屋や公民館で暮らしました(西浦道雄さんの証言)
- 仲畑さんのお母さんは、お兄さんが読みかけていた本を、毎日仏壇の前で読み聞かせていたそうです。けれども戦争の話は、仲畑さんに一切しなかったといいます(仲畑直さんの証言)
- 空襲から4週間たたない8月15日に、戦争は終わりました。岸田さんは、この日はちょうど亡くなった弟の葬式で、玉音放送は十分に聞き取れなかったと話しています(岸田達男さんの証言)
- 28年後の1973年、中嶋義秋さんは「忘れることのできない空襲の日」を書き残しました。そして2018年、息子の宏次さんは、SUNPEACEのメンバーとあの道を歩きました
岸田さんは2024年、歩いてたどった道の上で、「もう、一生忘れないですね」と語りました。サイレンの音、爆音、機銃掃射の音が、頭に焼き付いているといいます(岸田さん 2024年の動画 22:40ごろ〜)。
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4人の体験者が、それぞれの場所に立って語った「あの日、あの場所で」(2023年)です。
岸田達男さんが、学校から撃たれた場所まで歩いて語った動画(2024年)です。
仲畑直さんのお話は42:40ごろから、体験者の男性の映像は1:12:22ごろから見られます(ピースラリー2025)。
