三田空襲の話を聞いたり読んだりしていると、「この人は11時と言っている」「あの記録は9時半と書いてある」と、気づくことがあります。同じ日のことなのに、なぜ違うのでしょうか。
このページは、どの人が正しいかを決めるためのものではありません。語ってくださった方の多くは、あの日、10歳前後の子どもでした。命の危険の中で見たこと、聞いたことを、何十年も胸にしまい、私たちに話してくださいました。その記憶に敬意をもって、「確かになったこと」と「まだわからないこと」を分けて書きます。
なぜ違いが生まれるのか
- いた場所が違います。三田と三輪、二つの学校の子どもたちが、それぞれの道の上にいました。2023年に4人の体験者が集まったときも、飛行機が来た方向の記憶が分かれました。話の中では、列が出発した順番が違ったのかもしれない、という声も出ました(「あの日、あの場所で」 3:33ごろ〜)
- 見ている余裕がありませんでした。岸田達男さんは頭を突っ込んでいて見えず、志儀喜代美さんは白いカバンを抱えるのに必死でした。内田昇さんは、前後のことはほとんど覚えていないと話しています(「あの日、あの場所で」 9:54ごろ〜)
- 書かれたのも、語られたのも、ずっとあとです。手記は空襲の28年後、三輪区史は53年後、動画の証言は73年後から80年後です。長い年月の間には、あとで読んだことや聞いたことが、自分の記憶と重なることもあります。これは、だれにでもあることです
- 当時は知らされませんでした。岸田さんは報道管制があったと話し(岸田さん 2021年の動画 4:25ごろ〜)、志儀さんも、当時は情報が入ってこなかったと語っています(第1回 聞く会 1:01:05ごろ〜)
- 呼び方が残りました。当時の人々は、飛行機を「グラマン」と呼びました。その呼び方が、手記や区史、語り継ぎの中に残っていきました
聞き手の大向勲さんは、体験者の話を聞いたあとで、低学年や中学年の記憶なのであいまいな部分があるとしても、「これだけ明確にイメージできるほど強烈な体験」だったと語っています(「あの日、あの場所で」 31:43ごろ〜)。細かいところが違っていても、あの日に起きたことの重さは変わりません。
確定したこと
このブログでは、次のことを確かなこととして伝えています。
- 日にち:1945(昭和20)年7月19日
- 時刻:午前9時45分ごろ
- 地名:「高次」と書きます。動画の字幕などで別の字になっていることがあります
- 機種:P-51(杉山雅崇さんの調査)
- 「グラマン」:当時の呼び方です
- 犠牲者:児童4人と女性1人。動画の中には「子ども5人」と聞こえる言い方もありますが、記録では児童4人と女性1人です
- 攻撃のしかた:機銃掃射です。「爆撃」「爆弾」という言い方が出てくることもありますが、これまでの記録にある攻撃は機銃掃射です
記録と証言で違うところ
下の表は、それぞれの記録や証言に、こう書かれている、こう語られている、というものです。
時刻
| 記録・証言 | 書かれていること・語られたこと |
|---|---|
| 中嶋義秋「空襲罹災記」(1973年) | 午前11時20分ごろ |
| 三輪小学校創立百周年記念誌(1973年) | 午前9時30分以降 |
| 三輪区史(1998年) | 午前9時30分〜45分 |
| 翌日の新聞(1945年7月20日、朝日新聞大阪版・神戸新聞) | 午前9時ごろから1時間、P-51が近畿地区に襲来 |
| 銃弾を届けてくださった方のメモ | 午前9時45分ごろ(追体験ツアー 26:45ごろ〜) |
| 体験者の男性の映像 | 午前9時45分から50分ごろ(ピースラリー2025 1:12:22ごろ〜) |
| 仲畑直さん | 11時過ぎか、その時間帯(ピースラリー2025 48:34ごろ〜) |
| 杉山雅崇さんの分析(2026年) | 午前9時〜10時ごろの間 |
手記の時刻は、劇「三田空襲を忘れない」の中でも使われています。杉山さんの分析と多くの記録をふまえ、このブログでは午前9時45分ごろとして伝えています。手記は、あの日を書き残そうとした大切な記録であることに変わりはありません。
機種
- 手記と百周年記念誌:艦載機グラマン
- 三輪区史:艦載機(区史の著者はTF38と推定)
- 岸田さん(2021年):「グラマンだと言われておりました」と話し、「一説にはP-51」という話にもふれています(8:50ごろ〜)
杉山さんは、米軍の任務報告書などを調べ、P-51だと結論づけました。くわしくは杉山雅崇さんの分析をご覧ください。
まだわからないこと
飛行機の機数
- 手記、三田市史(2012年):2機
- 三輪区史、百周年記念誌:1波4機、2波8機
- 西浦道雄さん:「4機が2機ずつ」編隊で2回来たと思う、と記憶を語っています(西浦さん 2020年の動画 10:54ごろ〜)
このように記録や証言によって2機、8機などの違いがあり、はっきりわかっていません。
朝の警報の順番
- 中嶋宏次さん:警戒警報が鳴り、解除になり、校庭に並んで下校(中嶋さんと歩く動画 2:00ごろ〜)。手記も、警戒警報がいったん解除されたと書いています
- 志儀さん:「いきなりね、空襲警報に変わったように思います」(第1回 聞く会 54:27ごろ〜)
- 杉山さんの分析の中でも、当時児童だった人たちが、警戒警報もなくいきなり空襲警報が鳴ったと話していることが紹介されています
- 岸田さん(2024年):警戒警報のあと、空襲警報が鳴るか鳴らないかのころに爆音が聞こえた(10:38ごろ〜)
三田と三輪で学校が違うので、そのために話が違う可能性もあります。ただ、確かめられてはいません。
飛行機が来た方向
- 区史、百周年記念誌:播州(兵庫県西部)の方から
- 志儀さん:大池の向こうから三輪の方へ(志儀さん 2022年の動画 30:53ごろ〜)
- 岸田さん:学校の方から(岸田さん 2024年の動画 20:04ごろ〜)
- 仲畑さん:南より少し西から、北東へ(ピースラリー2025 50:09ごろ〜)
飛行機が旋回したのであれば、場所によって違って見えたとしても不思議ではありません。中嶋さんも、旋回してきたのかもしれないと話しています(中嶋さんと歩く動画 3:17ごろ〜)。
下校のようす
- 中嶋さんは2列に並んで帰ったと語り、仲畑さんは「チリチリバラバラ」と家の方へ向かったと語っています(ピースラリー2025 48:28ごろ〜)。同じ下校でも、覚えている場面が違うのかもしれません
- 志儀さんに声をかけた人は、「多分先生」(2022年)とも、「上級生」(2023年)とも語られています。ご本人も、はっきり誰とはわからないそうです。あの場面で、誰かが必死に子どもたちを守ろうとしていたことは確かです
なぜ三田が撃たれたのか
- 米軍の報告書に「三田」という地名は出てきません。周辺の「臨機目標」(その場で見つけた目標)に機銃掃射をしていたことがわかっています(杉山さんの分析)
- 志儀さんは、校舎の一部に疎開していた工場がねらわれたのではないか、と思いを語っています(第1回 聞く会 59:48ごろ〜)。これはご本人の思いとして紹介します
- 線路の貨物列車が撃たれた話も伝えられています(追体験ツアー 30:31ごろ〜)
高平に落ちた日本の飛行機
同じ日に高平に墜落した飛行機について、岸田さんは「零戦」と語っています。一方、杉山さんの分析で紹介された地元の記録には、八尾から飛び立った陸軍機とあります。機種のくわしいことは、碑や記録と照らし合わせて確かめる必要があります。
どうやって確かめてきたのか
- 書き残す:1973年、中嶋義秋さんが「空襲罹災記」を書きました。学校の記念誌、区史、市史にも記録が残りました
- その場所に立つ:SUNPEACEは2018年から、体験者と実際の道を歩いてきました。中嶋宏次さんは、当時のまわりの地図も描いています
- 何人もの話をくらべる:一人ずつの聞き取りに続き、2023年には4人の方に集まっていただき、同じ場所で話をうかがいました
- 物を見る:穴のあいた半鐘、薬莢、銃弾。入った穴と出た穴の差1.5センチから、飛行機の低さがわかります
- 相手の国の記録を見る:杉山さんは米国の空軍歴史調査室から任務報告書を取り寄せ、翌日の新聞ともつき合わせました。協力者の田中まことさんは、報告書の時刻と日本の発表の差について、時差で説明できるのではないかと推定しています
- わからないことは、わからないと書く:機数のように、今もはっきりしないことは、そのまま伝えます
追体験ツアーで大向さんは、時間や飛行機については諸説あるとしたうえで、確実にこういう事実があったことを語り継ごうとしている、と話しました(追体験ツアー 26:51ごろ〜)。
考えてみよう
- 同じ日のことなのに、人によって話が違うのはなぜでしょう。どうやって確かめればよいでしょう
- 体験者の記憶と、米軍の報告書は、それぞれ何を教えてくれるでしょう
- 「わからない」とはっきり書くことには、どんな意味があるでしょう
授業で使うときは、中学校のワークシート(資料をくらべる)や高校のワークシート(米軍の記録と新聞を調べる)もあわせてご覧ください。
次に読む
動画を見る
4人の記憶が同じ場所で重なり、ときに分かれる場面が見られます(「あの日、あの場所で」)。
時刻や機種に諸説があることにふれている、追体験ツアーの動画です(26:45ごろ〜)。
