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【証言動画】岸田達男さんが語る三田空襲(2021年)――高平に落ちた零戦と、戦争に奪われた家族

あらせん(荒井隆一)あらせん (更新 2026年10月30日)
この記事の目次
  1. この動画でわかること
  2. 証言者の紹介:岸田達男さん
  3. 証言の要約(時系列)
  4. ちめいど雄介さんの平和ライブ
  5. 動画を見る
  6. 関連記事

SUNPEACEは、三田空襲の体験者に話をうかがい、その様子を動画に残してきました。この記事では、2021年7月18日に配信した「岸田達男さんが三田空襲を語る & ちめいど雄介さんによるライブ2021.7」(約71分)を紹介します。三田空襲から76年をむかえる前の日に、岸田達男さんに三田の戦争の歴史を語っていただき、対談のあとには、SUNPEACEのメンバーでもあるちめいど雄介さんの平和ライブをお届けしました。

岸田さんには、2024年にも、当時の学校から空襲にあった場所まで一緒に歩きながら話をうかがっています。その記事「岸田達男さんが語る三田空襲――下校の列に迫った機銃掃射と、戦時中の学校」もあわせてご覧ください。この2021年の回では、高平の上空で起きた空中戦と零戦の墜落、亡くなった弟たちや戦地に行った家族のこと、戦争で家族を失った人たちの声など、2024年の動画にはない話が多く語られています。

この動画でわかること

  • 空襲の日、零戦が高平の上空でアメリカの戦闘機と出会って撃ち落とされ、高平小学校の近くの竹やぶに落ちたこと
  • 警戒警報・空襲警報のしくみや、六甲山の向こうが赤く燃えて見えた阪神の大空襲のようす
  • 太平洋戦争が始まった日に生まれた弟と、終戦の前の日に亡くなった弟。そして、戦地に行った父やおじたちのこと
  • 夫や父を戦争で失った人たちの声を集めた本づくりと、そこに残された、若い飛行士の婚約者の思い
  • 「二度と悲惨な戦争は起こしてほしくない」という岸田さんの願いと、ちめいど雄介さんの3曲の歌

証言者の紹介:岸田達男さん

岸田達男さんは、当時の兵庫県有馬郡三田町に生まれました。1945年7月19日の空襲を、三田国民学校の当時5年生として体験しました。三田の歴史の語り部の第一人者として、その体験をさまざまな形で語り伝える活動を続けてこられた方です。1974年(昭和49年)、40歳のころには、空襲の記録をまとめた本に「機銃掃射で5人死亡」という文章を書き、その後も三田小学校の百年誌の編集や、三田の戦争の歴史をまとめた本の執筆など、郷土の歴史を書き残してこられました。聞き手は、SUNPEACEの大向勲さん(当時の会長)です。

証言の要約(時系列)

警報と、遠くの町の空襲

  • 敵の飛行機が近づくと、NHKのラジオで「中部軍管区情報」が流れ、「紀伊半島沖に米軍機数百機、阪神方面に進行中」といった知らせが入りました。まだ遠いうちは警戒警報、すぐそこまで来ると空襲警報で、半鐘やサイレンの鳴らし方もすべて決められていました。警戒警報が鳴ると「まだ遠いけれど、防空壕へ逃げる準備をしておかないと」と思ったといいます(動画 9:25ごろ〜)
  • 85歳になった今も、サイレンの「ウーウー」という音を聞くと、当時を思い出して、恐怖のようなものが心に響くそうです(6:36ごろ〜)
  • 当時いちばん怖かったのは、グアム島から飛んでくるB29の爆撃でした。1万メートルほどの高さを、銀色に小さく光りながら飛行機雲を引いて飛び、地響きのような低い爆音がしていました(11:14ごろ〜)
  • 大阪や神戸などの大空襲のとき、岸田さんの祖母は六甲山の方を見て、西宮北口に住む息子の家が燃えていると心配し、「なんとか無事でありますように」と言っていました。六甲山の向こうが真っ赤になるほどの火災だったといいます(11:50ごろ〜)

1945年7月19日

  • 警報が鳴ると、子どもたちは地区ごとに運動場に整列し、校長先生の号令で一斉に下校していました。その日、岸田さんは1年生から順に並んだ列の、5年生の後ろの方にいました(13:53ごろ〜)
  • 学校の坂を下り、校門から100メートルほど行ったところで、上空から「バリバリバリ」というものすごい音がしました。爆音と機銃掃射の音が同時で、とても低い空でした(14:49ごろ〜)
  • 岸田さんはあわてて列から離れ、家と家の間の細いすき間に隠れました。綿の入った防空頭巾をかぶり、それを必死で押さえて、飛行機が通り過ぎるのを待ちました。同級生の中には「アメリカのパイロットの顔が見えた」と言う子もいたほど、低く飛んでいました(15:15ごろ〜)
  • 弾は真下ではなく、斜め前の方へ撃ちこまれました。その先の、1〜2キロ離れた三輪国民学校では、同じように下校しようとしていた子どもたちや、学校を守るために残っていた子どもたちが撃たれました。桑原の方へ帰る道を歩いていた子どもたちは、ちりぢりに逃げ、溝に隠れた子もいましたが、何人かが亡くなりました。近くのわらぶき屋根の家も、弾が当たって燃え、全焼しました(16:17ごろ〜)
  • 当時は報道管制があり、空襲のことは新聞などにはまったく載りませんでした(4:22ごろ〜)。岸田さん自身も、そのときは三輪の子どもたちが亡くなったことを知らず、近所の女の子がけがをして病院に運ばれたことを聞いていただけでした(46:39ごろ〜)
  • 岸田さんの家は、本当は三輪国民学校の方が近かったのですが、住所が三田町だったため、遠い三田国民学校に通っていました(47:05ごろ〜)

※岸田さんは、飛行機を「グラマン」「艦載機」と呼び、「一説にはP-51とも言われる」とも話しています。その後の調査では、三田を襲ったのは硫黄島から飛来した米陸軍のP-51戦闘機とみられています。詳しくは「三田空襲とは?」をご覧ください。

機銃掃射の弾と薬きょう

  • 岸田さんは、対談の場に機銃掃射の弾と薬きょうを持ってきて見せてくれました。弾は、近所の女の子の太ももに当たったものです。出血がひどく、近くの医院では手当てができなかったため、傷痍軍人の病院(今の中央病院)に運ばれて、命は助かりました(44:00ごろ〜)
  • 薬きょうには火薬が入っていて、後ろを打つと火薬が爆発して弾が飛び出します。薬きょうはそのまま下に落ちるのだと、しくみも説明してくれました(45:07ごろ〜)
  • アメリカの飛行機がなぜ撃ったのかについては、「三田駅や貨物、その向こうにあった大きな倉庫を軍需工場だと思った」「三輪国民学校の大きな2階建ての校舎を工場だと思った」という話が、当時の町のうわさとしてあったそうです。新聞の報道はありませんでした(45:39ごろ〜)

高平に落ちた零戦

  • 空襲警報が鳴ると、日本の戦闘機が迎え撃つために飛び立ちました。けれども、零戦は1万メートルの高さを飛ぶB29までは届きませんでした(38:50ごろ〜)
  • その日、大阪の飛行場にいた山形県出身の少尉が乗る零戦は、敵をやっつけるためではなく、数少なくなった零戦を守るために、「三田の山奥なら敵も追ってこないだろう」と、こちらへ逃れてきました(39:21ごろ〜)
  • ところが、三田で機銃掃射をしたアメリカの戦闘機と高平の上空で出会い、空中戦になって撃ち落とされました。零戦は火をふいて、高平小学校の近くの竹やぶに頭から突っこむように落ちました。墜落したのは7月19日、三田を襲ったのと同じ飛行機によるものだろうと、岸田さんは話しています(40:01ごろ〜、43:09ごろ〜)
  • アメリカの戦闘機の数は圧倒的に多く、飛行場に残る零戦の数はわずかで、空中戦をしても勝てるはずがなかったといいます(43:20ごろ〜)
  • このことを書き残したのは、その少尉の婚約者だった女性です。当時18歳で、手紙をやりとりするだけのお付き合いでした。戦死を知った女性は、戦闘機を赤とんぼになぞらえて、あなたの命は短かったかもしれないけれど、わたしの思いは尽きることがない、という気持ちを短歌によみました。岸田さんは、この歌を聞いて涙が出たと話しています(40:37ごろ〜)

戦争中のくらしと、亡くなった弟たち

  • 目や耳だけでなく、においの記憶も残っています。ふだんは麦ごはんや芋ごはん、芋のつるばかり食べていたので、炊きたての白いごはん「銀シャリ」のにおいが忘れられません。もう一つは、広野の方にあった軍需工場の近くで、働く人たちのためにトラックが運んでいた、たくあんなどの漬物のにおいだそうです(20:09ごろ〜)
  • 岸田さんの2人の弟は、戦中から戦後にかけて、幼いうちに亡くなりました。すぐ下の弟は、太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)12月8日に生まれました。父は「昭和が平和でありますように」と願い、昭和の「昭」と平和の「平」の字を使って名前をつけましたが、その弟も亡くなりました。「戦争で平和ではなかった」と岸田さんは話します(23:20ごろ〜)
  • その下の弟は、終戦の前の日、8月14日に亡くなりました。8月15日、玉音放送があるというその日、岸田さんはお葬式で墓地に向かっていました。食べ物が足りず、栄養が十分でなかったこともあり、コンデンスミルクなどもなく、わずかなお米をつぶして与えていたそうです(24:39ごろ〜)
  • 夜は、明かりが外にもれると敵の飛行機にねらわれるので、裸電球のまわりを黒い布でおおい、わずかな光が下にだけ落ちるようにしていました(26:02ごろ〜)

戦地に行った家族

  • 自分から志願して兵隊になる人もいましたが、岸田さんの父は、国からの命令である召集令状を受けて出征しました。出征のときに近所の人や親戚が名前を書いた寄せ書きの日の丸には「武運長久」「万歳」と書かれています。本当は嫌でも、国の方針で「めでたい」と言って送り出さなければなりませんでした(26:55ごろ〜)
  • 出征する人を、駅まで国旗を持って見送りに行ったことも、うっすらと覚えているそうです(29:53ごろ〜)
  • 父は中国の戦地で大変な苦労をし、病気のために帰国の命令が出たのではないか、と岸田さんは考えています。終戦は家族と一緒に迎えましたが、戦争のことは一切話さず、49歳で亡くなりました。岸田さんは、のちに父の軍歴を調べて書き残しています(30:24ごろ〜)
  • 父の弟であるおじは、パラオに向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷を受けて戦死しました。また、親戚のおじは、とても厳しい試験を通って海軍の予科練に入り、マリアナ沖の戦いで戦死しました。頭もよく、体格もよく、すべてに優れた人だったといいます(33:29ごろ〜)
  • 岸田さんが戦争を語り継ぐ原動力は、亡くなった弟たちへの鎮魂、戦争を憎む気持ち、そして父や身内の戦死・戦病のことだと話しています(35:14ごろ〜)

戦争で家族を失った人たちの声

  • 福祉事務所長をつとめ、遺族会を担当していたころ、岸田さんの提案で、三田市内の多くの人たちの思いを集めることになりました。はじめは冊子で、寄せられた文章を読みやすく整えて10冊出し、それを1冊の本にまとめました。父を亡くした人、夫を亡くした人、一般の人など、さまざまな人の声が入っています(35:52ごろ〜)
  • 心に残っているのは、養子に来てくれた夫が、結婚式の次の日に召集されたという女性の話です。夫婦で話をする間もないまま、夫は戦地に行きました。その女性は再婚せず、90歳をこえるまで一人で過ごしました。当時は「戦争未亡人」と呼ばれ、世間から冷たい目で見られることもあったそうです(37:23ごろ〜)
  • 夫を亡くし、苦労して子どもを育てて学校に上げ、自分は枯れ木が枯れるように亡くなっていった人もいました。今のようにすぐに補償がある時代ではありませんでした(42:18ごろ〜)

いま伝えたいこと

  • 本庄小学校の6年生に話をしたとき、「祖母が、自分が食べるものを『お国のためにがんばらないかん』と言って自分にくれた」という話をしました。すると子どもたちは、「自分が欲しいものを人にあげるなんてできない。今はぜいたくな食事をしているけれど、そんなことになる戦争は絶対にしてはいけない。次の世代に伝えたい」と言ってくれたそうです。70歳ほど年のちがう子どもたちの心に伝わったと、強く印象に残っているそうです(49:57ごろ〜)
  • 明治維新から太平洋戦争の終戦までのわずか60数年の間に、日本では6回も7回も戦争や事変が起きました。10年に1回です。その後の70年あまりを平和に暮らせたおかげで、85歳まで「生きさせていただいている」と岸田さんは話します(51:41ごろ〜)
  • 「自由に話ができる平和な世の中が、いつまでも続いてほしい。二度と悲惨な戦争は起こしてほしくない。これが私の一番の願いです」(52:23ごろ〜)

ちめいど雄介さんの平和ライブ

対談のあとは、SUNPEACEのメンバーでもある、ちめいど雄介さんのライブです。ふだんは弟さんと兄弟の「ちめいど」として学校などで歌っていますが、この日は雄介さん一人での出演でした。喉の調子が悪い中でしたが、戦争のない世界への思いをこめて、3曲を歌っていただきました(53:25ごろ〜)。

  • 平和を紡ぐ人:広島の原爆を描いたアニメの映像を見て書いた曲です。広島の呉で船をつくる仕事をしていたおじいさんが、爆撃でけがをしながらも、生きることをあきらめずに治したという話を身近で聞き、「その命を受け継いで生きている」という思いをこめています。学校での公演では、ほぼ必ず歌っている曲です(54:55ごろ〜、57:23ごろ〜)
  • ペース配分:「どんな時もがんばれ」ではなく、「自分のペースで進んでいけばいい」という思いをこめた曲です。つらい時には逃げてもいい時がある、無理をして自分を追いつめないでほしい――「あきらめない命」というテーマと、つながっています(1:02:55ごろ〜)
  • はんぶんこ:最後に歌われた、やさしい曲です(1:09:07ごろ〜)

SUNPEACEのこれまでの活動や、ちめいどさんの平和音楽Liveについては、「三田空襲の歴史を忘れない〜SUNPEACEの軌跡〜」にまとめています。

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あらせん(荒井隆一)
この記事を書いた人 あらせん(荒井隆一)

小学校校長。書家。ことわざの達人。SUNPEACE 理事長、情熱教師塾 塾長。第63回読売教育賞 最優秀賞。著書『いじめ2.0〜新しいいじめとの戦い方〜』。

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