岸田達男さんは、1945年7月19日の三田空襲を、三田国民学校の5年生として体験した方です。SUNPEACEは、2021年、2024年、2025年の3回、岸田さんのお話を動画に残してきました。このページでは、3本の動画をまとめて紹介し、岸田さんの体験と願いの全体をたどります。くわしい場面は、それぞれの解説記事をご覧ください。
岸田達男さんは、どんな人?
- 1934年(昭和9年)、当時の兵庫県有馬郡三田町に生まれました。「国民学校」が始まった年の1年生です
- 空襲のときは三田国民学校(今の三田小学校)の5年生でした
- 40歳のころ、三田空襲のことを本に書きました。その後も、三田小学校の百年史の編集や、三田の戦争の歴史をまとめる仕事にかかわってきました
- 福祉事務所長をつとめていたころ、戦争で家族を失った人たちの声を集める冊子を提案しました。冊子は10冊になり、1冊の本にまとめられました
- 三田の歴史の語り部の第一人者として、学校の子どもたちにも体験を語ってきました
- 2025年7月19日、空襲から80年の日には、91歳で「三田空襲を聞く会」の語り手をつとめました
動画ごとの紹介と目次
聞き手は、3本ともSUNPEACEの大向勲さんです。目次の時刻は、動画の中のおよその場所です。
動画1:岸田達男さんが三田空襲を語る(2021年7月18日・約71分)
空襲の76年後に収録した対談です。7月19日のこと、同じ日に高平に落ちた日本の戦闘機のこと、亡くなった2人の弟、戦地へ行った家族のことを語っています。機銃掃射の弾と薬きょうの実物も見せてくれました。後半は、ちめいど雄介さんのライブです。解説記事はこちらです。
目次
- [00:00] はじめに
- [02:27] 岸田さんの自己紹介
- [05:58] サイレンの記憶
- [07:13] 1974年に書いた文章
- [08:50] 飛行機は何だったか
- [09:25] 警報のしくみ
- [11:14] B29と大空襲
- [13:53] 集団下校のしくみ
- [14:36] 7月19日当日
- [16:17] 三輪国民学校と桑原の被害
- [18:32] 農家の火災
- [20:09] においの記憶
- [23:22] 2人の弟
- [25:52] 灯火管制
- [26:55] 召集令状と寄せ書き
- [30:24] 父の戦地と病気
- [32:45] 語り続ける原動力
- [35:44] 遺族の声を集めた本
- [37:23] 結婚式の翌日に召集された夫
- [38:42] 高平の空中戦
- [40:37] 婚約者の短歌
- [43:57] 弾と薬きょうの実物
- [45:39] なぜ撃たれたのか(当時の町のうわさ)
- [49:57] 本庄小学校の6年生
- [51:41] 最後の願い
- [53:25] ちめいど雄介さんのライブ(平和を紡ぐ人/ペース配分/はんぶんこ)
動画2:三田空襲 岸田達男さんの体験「あの日、あの場所で」(2024年7月13日撮影・約35分)
三田小学校の運動場から、撃たれた場所までを一緒に歩いた動画です。岸田さんは途中で自分で走ってみせ、「ここで」と頭を突っ込んだ場所を示します。畑になった運動場や、奉安殿への礼など、戦時中の学校のようすもよくわかります。解説記事はこちらです。
目次
- [00:12] はじめに
- [01:39] 校庭の記念の木
- [03:47] 運動場が畑だった
- [06:16] 給食のない時代
- [08:47] 奉安殿と拝礼
- [10:18] 7月19日、警報と整列
- [12:35] 下校の列
- [15:00] 学校を出て、歩きながら
- [18:04] 爆音が近づく
- [18:44] 岸田さんが走ってみせる
- [19:13] 機銃掃射が始まった場所
- [20:00] 飛行機は学校の方から
- [22:29] 一生忘れない音
- [23:05] 学校の一日と軍事教育
- [27:12] 終戦の日
- [28:44] 岸田さんの本
- [30:28] 最後のメッセージ
- [32:32] 郷の音ホールの平和の鐘
動画3:第2回 三田空襲を聞く会(2025年7月19日・約8分)
空襲からちょうど80年の日に、コミュニティスペース「こんびび」で開いた会のようすを、短くまとめた動画です。市民約25名が集まりました。岸田さんの語りには、2024年の動画と同じ場面も入っています。最後に、これからの戦争について強い思いを語ります。会の記録はこちらです。
目次
- [00:00] 開会
- [00:20] 解説(80年前の今日)
- [01:23] 手記と、撃ちぬかれた穴
- [02:26] 岸田さんの紹介とあいさつ
- [02:46] 逃げた場所の話
- [04:20] 飛行機の方向と、友だちのことば
- [04:52] 地図で説明
- [05:20] 赤紙と軍隊の話
- [05:53] 岸田さんの願い
- [06:30] ちめいど雄介さんの平和LIVE
- [07:41] 閉会
語られたことの要約
畑になった運動場、軍隊のような学校
- 表の運動場は、ほとんどが畑でした。子どもたちがつるはしで固い土を掘り、いちばん多く植えたのはさつまいもでした(2024年 3:47ごろ〜)
- 給食はなく、みんながおなかをすかせていました(2024年 6:16ごろ〜)
- 登校と下校のたびに、天皇・皇后の写真をまつった奉安殿に頭を下げ、東の皇居に向かって拝礼しました(2024年 8:47ごろ〜)
- 戦争の終わりごろは、勉強はそっちのけになり、軍隊式の歩き方や体操が中心になりました(2024年 23:05ごろ〜)
戦争の中のくらしと家族
- ふだんは麦ごはんや芋ごはんを食べていて、炊きたての白いごはん「銀シャリ」のにおいが今も忘れられないといいます(2021年 20:09ごろ〜)
- 夜は、明かりが外にもれないよう、裸電球を黒い布でおおいました(2021年 25:52ごろ〜)
- 父は召集令状を受けて戦地へ行きました。本当は嫌でも、「めでたい」と言って送り出さなければなりませんでした。父は帰国したあとも戦争のことを話さず、49歳で亡くなりました(2021年 26:55ごろ〜、30:24ごろ〜)
- 2人の弟も亡くなりました。すぐ下の弟は太平洋戦争が始まった日に生まれ、父は平和を願う名前をつけました。その下の弟は終戦の前の日に亡くなり、玉音放送のあった8月15日は、そのお葬式の日でした(2021年 23:22ごろ〜、2024年 27:12ごろ〜)
1945年7月19日
- 警報が鳴ると、子どもたちは運動場に地区ごとに並び、号令で一斉に下校しました(2021年 13:53ごろ〜、2024年 10:18ごろ〜)
- 下校の途中、爆音と機銃掃射の音が迫りました。2021年の動画では、校門を出て100メートルほどの所で音がして、家と家のすき間に隠れ、防空頭巾を押さえて待ったと話しています(14:36ごろ〜)。2024年の動画では、現地を歩きながら、大池の堤の下あたりで爆音が近づき、走って逃げて頭を突っ込んだと示しています(18:04ごろ〜)
- 岸田さん自身は見ていませんが、同級生の中には「パイロットの顔が見えた」と言う子がいたそうです(2021年 15:52ごろ〜、2024年 20:00ごろ〜)
- この日、三田では児童4人と女性1人が亡くなり、高次の農家も焼けました。岸田さんは当時、三輪の被害を知らず、くわしく知ったのはあとになってからでした(2021年 46:39ごろ〜)
- 近所の女の子は、家の中にいて、壁を抜けた弾で足にけがをしました。岸田さんは、その弾の実物を見せてくれました(2021年 43:57ごろ〜、2024年 21:27ごろ〜)
※岸田さんは、飛行機を「グラマン」「艦載機」と話しています。これは、当時そう呼ばれていた、ご本人の記憶のままのことばです。杉山雅崇さんの調査で、三田を襲ったのは硫黄島から飛来した米陸軍のP-51戦闘機だとわかっています(くわしくはこちら)。時刻は午前9時45分ごろです。機数は記録や証言によって2機、8機などの違いがあり、はっきりわかっていません。
高平に落ちた日本の戦闘機
- 同じ日、高平の上空で空中戦があり、日本の戦闘機が高平小学校の近くの竹やぶに落ちました。岸田さんは、この飛行機を零戦と話しています。若いパイロットが亡くなりました(2021年 38:42ごろ〜)
- パイロットの婚約者だった女性は、その思いを短歌によみました。岸田さんは、その歌を聞いて涙が出たと話しています(2021年 40:37ごろ〜)
書き残し、語り伝える
- 語り続ける原動力は、亡くなった弟たちへの思い、戦争を憎む気持ち、戦争で傷ついた身内のことだと話しています(2021年 32:45ごろ〜)
- 集めた声の中には、結婚式の次の日に夫が召集され、再婚せずに一人で生きた女性の話もあります(2021年 37:23ごろ〜)
- 本庄小学校の6年生に話をしたとき、子どもたちが「次の世代に伝えたい」と受け止めてくれたことが、強く心に残っているそうです(2021年 49:57ごろ〜)
いま伝えたいこと
- 子どものころの教育で「お国のために死ぬのが当たり前」と思っていたのに、戦争に負けると教育が180度変わりました(2024年 30:44ごろ〜)
- 多くの人が平和のありがたさを実感し、戦争を起こしてはならないと声を上げられる世の中であってほしい、と願っています(2024年 31:36ごろ〜)
- 2025年には、これから戦争が起きると核兵器が使われ、多くの人が長い年月苦しむことになると語り、戦争は絶対にしてはならないと訴えました(2025年 5:53ごろ〜)
心に残ることば
- 「もう、一生忘れないですね」(2024年 22:40ごろ)サイレン、爆音、発射の音の記憶を語ったことばです
- 「戦争で平和でなかったということです」(2021年 24:36ごろ)平和を願う名前をもらった弟のことを語ったことばです
- 「教育が、コロッと変わりました」(2024年 31:14ごろ)
- 「多くの人が、声を上げられる、世の中」(2024年 31:54ごろ)
- 「絶対に、戦争はしてはならない」(2025年 6:18ごろ)
授業で使える問い
- 今みんなが遊ぶ運動場が畑になり、自分たちで掘るとしたら、どんな気持ちになるでしょう。なぜ学校がそうしなければならなかったのでしょう(2024年 3:47ごろ〜)
- 岸田さんは「お国のために死ぬのが当たり前」と思っていたと話しています。子どもがそう思うようになったのは、なぜでしょう。毎日の学校生活のどこに、その理由があったでしょう(2024年 8:47ごろ〜、30:44ごろ〜)
- 岸田さんは、80年前の話から核兵器の話へつなげました。それはなぜでしょう。みんなは平和のために、どんなことなら声に出せるでしょう(2025年 5:53ごろ〜)
