中嶋宏次さんは、三輪国民学校の2年生のときに三田空襲にあい、下校の列の中で「伏せろ」の声を聞いた方です。SUNPEACEは2018年、中嶋さんと一緒にその下校の道を歩き、お話を動画に残しました。中嶋さんは2025年5月に亡くなりました。このページでは、中嶋さんの3本の動画をまとめて紹介し、お父さんの手記ともつなげて、その全体像をたどります。くわしい場面は、それぞれの解説記事をご覧ください。
中嶋宏次さんは、どんな人?
- 1945年7月19日、三輪国民学校(今の三輪小学校)の2年生として空襲を体験しました
- お父さんの中嶋義秋さんは、当時、三輪町役場の職員でした。義秋さんの手記「空襲罹災記」は、劇「三田空襲を忘れない」のもとになりました
- 犠牲になった方々の場所を、自分で地図にかいて示し、語るときに使ってきました
- 平成19年には、同窓生の冊子に「我、戦争の語り部とならん」という題で文章を書いています
- 2018年8月19日、SUNPEACEのメンバーと下校の道を歩いて語り、同じ年の12月30日には舞台でも語りました
- 2025年の追体験ツアーの案内をお願いされていましたが、その5月に亡くなりました
父の手記とつながる話
中嶋さん親子は、同じ7月19日を、それぞれ別の場所で体験しました。宏次さんは下校の列の中で、義秋さんは役場の職員として、です。
義秋さんは空襲から28年がたったときに、忘れることのできない日を書き残そうと手記をまとめました。手記には、火災を見て町長に報告し、自転車で急報に走り回ったこと、路上で亡くなった二人の男の子を見つけて保護者へ知らせたことが記されています。宏次さんの地図と語りは、この手記と重ねて読むと、あの日のようすがより立体的に見えてきます。
手記の内容は「空襲を記録した役場職員・中嶋義秋さんの手記『空襲罹災記』を読む」で紹介しています。
動画ごとの紹介と目次
目次の時刻は、動画の中のおよその場所です。
動画1:体験者(中嶋宏次氏)と歩く三田空襲(2018年8月19日・約10分)
当時の下校の道を、中嶋さんと実際に歩いた動画のダイジェスト版です。並び方や飛行機の高さ、伏せた場所を、その場で指さしながら語っています。解説記事はこちらです。
目次
- [00:00] 撮影の趣旨
- [00:58] 中嶋宏次さんの紹介
- [01:26] 三輪小学校の前で
- [01:47] 警報と下校の指示
- [02:22] 2列の再現
- [03:53] 疎開してきた子
- [04:40] 当時の道
- [05:05] 「伏せろ」
- [06:11] 帰り道
- [06:35] 同じ列の2人のこと
- [08:17] 未来へ残す
- [08:42] 12月30日に向けて
- [09:19] 語り継ぐ使命
動画2:PEACE RALLY FINAL 中嶋宏次さんのトーク(2018年12月30日・約13分)
郷の音ホール小ホールで、劇の上演のあとに行ったトークです。聞き手は大向勲さんです。当時の写真、手書きの地図、穴のあいた半鐘を手がかりに語り、最後に中嶋さん自身のメッセージがあります。解説記事はこちらです。
目次
- [00:00] 登壇
- [00:47] 三輪国民学校と手記
- [01:31] 下校の並び方
- [02:48] 当時の写真
- [03:31] 手記を書いた義秋さん
- [04:23] 手書きの地図
- [05:43] 縁故疎開の説明
- [06:38] 機銃のカメラの映像
- [08:34] 半鐘
- [09:13] 薬きょうと弾
- [09:52] 1.5センチの差
- [10:37] 「我、戦争の語り部とならん」
- [11:30] 最後のメッセージ
動画3:三田空襲追体験ツアー 本編(2025年7月19日・約34分)
空襲からちょうど80年の日に、高校生・大学生ら15名が、中嶋さんと歩いた道をもう一度歩いた記録です。案内役はSUNPEACEの大向勲理事長です。この動画の中嶋さんのことばは、すべて大向さんが伝えたものです。解説記事はこちらです。
目次
- [00:14] あいさつ
- [00:44] 三輪国民学校の門から
- [01:04] 2つの追体験
- [02:04] 中嶋さんへの思い
- [04:47] イチョウの木
- [05:08] 運動場の畑
- [05:43] 地図の①〜⑤
- [07:27] 2列で歩く
- [10:07] 焼けた4軒
- [12:05] 男組と女組
- [13:56] 疎開してきた女の子
- [17:58] 父の手記
- [19:53] 半鐘と1.5センチ
- [21:31] 「ここや」
- [22:44] スローモーションのような弾
- [23:23] 逃げ込んだ家
- [24:05] 屋根くらいの高さ
- [25:05] 薬きょうと弾
- [26:37] 弾のメモと諸説
- [27:45] 九死に一生
- [29:47] 帰り道と貨物列車
- [31:21] 歌が生まれたこと
- [31:46] まとめ
語られたことの要約
2列で歩いた下校の列
- その日は校庭に並ぶように言われ、集団で下校することになりました(2018年8月 1:47ごろ〜)
- 男の子と女の子は別の集団で、中嶋さんの列は2列でした。幼稚園の子もいっしょでした(2018年12月 1:31ごろ〜、2018年8月 2:22ごろ〜)
- 親もとを離れ、親せきをたよって疎開してきた子もいました。安全なはずの田舎で、空襲にあったのです(2018年8月 3:53ごろ〜、2025年 13:56ごろ〜)
「伏せろ」
- 飛行機が見えると、上級生が「伏せろ」と言い、みんなが伏せました。弾が雨のように降ってきたといいます(2018年8月 5:05ごろ〜)
- 中嶋さんがいちばん強く覚えていたのは、ぬかるんだ田んぼに弾が撃ちこまれていくようすが、スローモーションのように見えたことでした(2025年 22:44ごろ〜、大向さんが紹介)
- 飛行機の高さは、屋根ぐらいだったそうです(2025年 24:05ごろ〜)
- そのあと近くの家に逃げこみ、しばらくはこわくて出られず、「もう大丈夫や」と言われて、小走りで家へ帰りました(2025年 23:23ごろ〜)
- 同じ列に並んでいた2人が亡くなりました。ほんの数メートルのちがいだったことが、現地で語られています(2018年8月 6:35ごろ〜)
※手記や弾に添えられたメモでは、飛行機は「グラマン」と書かれています。これは、当時そう呼ばれていたことばです。杉山雅崇さんの調査で、三田を襲ったのは硫黄島から飛来した米陸軍のP-51戦闘機だとわかっています(くわしくはこちら)。時刻は午前9時45分ごろです(手記には午前11時20分ごろとあります)。機数は記録や証言によって2機、8機などの違いがあり、はっきりわかっていません。
地図と、半鐘と、薬きょう
- 中嶋さんが手書きした地図の1〜5の番号は、犠牲になった方々の場所です(2018年12月 4:23ごろ〜)。この日亡くなったのは、児童4人と女性1人です
- 三輪会館の半鐘には弾が突き抜けた穴があり、入口と出口の高さの差は1.5センチです。飛行機がとても低く、ほとんど真横から撃ったことがわかります。大向さんは、この半鐘を「物言わぬ証言者」と呼びました(2018年12月 8:34ごろ〜)
- 銃撃のあと、あたりには薬きょうが落ちていて、中嶋さんはそれを拾っていました(2025年 25:05ごろ〜)
語り継ぐ人へ
- 2018年8月の動画では、この体験を、200年、300年、500年先の人にも映像で残したいという思いが語られました(8:17ごろ〜)
- 最後のトークで中嶋さんは、戦争は普通に生活している人々の暮らしをおびやかし、多くの尊い命を失わせると語り、一人ひとりが力を合わせることをよびかけました(2018年12月 12:02ごろ〜)
- 2025年2月、大向さんは中嶋さんにもう一度力を貸してほしいとお願いしましたが、一緒に歩くことはかないませんでした。ツアーは、ここで感じたことをまたつないでいくことが、何よりも中嶋さんの冥福を祈ることになる、ということばで結ばれました(2025年 2:04ごろ〜、31:46ごろ〜)
心に残ることば
- 「ええ、まさかと思いましたから」(2018年8月 6:56ごろ)同じ列の2人が亡くなったと聞いたときのことです
- 「我、戦争の語り部とならん」(2018年12月 11:01ごろ)平成19年に書いた文章の題です
- 「二度とこのようなことが起きない世の中にしなければなりません」(2018年12月 12:18ごろ)
- 「あのイチョウの木だけは同じや」(2025年 4:55ごろ、大向さんが紹介)
- 「九死に一生を得たのです」(2025年 28:03ごろ、大向さんが紹介)
授業で使える問い
- 自分の通学路で、もし飛行機が来たら、どこで身を守りますか。今の道と当時の道は、どうちがうでしょう(2018年8月 4:40ごろ〜)
- 穴の高さの差が1.5センチだと、飛行機はどんな高さを飛んでいたと考えられますか。図にかいて説明してみましょう(2018年12月 9:52ごろ〜)
- 体験者が語れなくなったあと、私たちはどんな方法で伝えられるでしょう。500年先の人に伝えるなら、何を残しますか(2025年 31:46ごろ〜)
