SUNPEACEは、三田空襲の体験者に話をうかがい、その様子を動画に残してきました。この記事では、2025年12月27日の「ピースラリー2025 〜戦後80年、三田空襲を語り継ぐ〜」で、仲畑直(なかはた・ただし)さんが語った体験を紹介します。仲畑さんは、三田空襲で7歳年上のお兄さんを亡くしました。これまで、このことを人に語ることはほとんどなかったといいます。
この動画でわかること
- 空襲のとき幼稚園児だった仲畑さんが、小学生の列といっしょに下校していたこと
- 6年生の上級生に「入れ」と言われて田んぼの水路に伏せ、助かったこと
- 道をはさんで反対側に伏せていたお兄さんが、弾に当たって亡くなったこと
- お兄さんが読みかけていた本を、お母さんが毎日仏壇の前で読み聞かせていたこと
- 「安心して暮らせる世の中に」という、仲畑さんの願い
証言者の紹介:仲畑直さん
仲畑直さんは、1939(昭和14)年生まれ。1945年7月19日の空襲のときは5歳で、幼稚園に通っていました。2025年7月19日の神戸新聞に、下校中の機銃掃射でお兄さんを亡くしたという仲畑さんの記事が載り、それを読んだSUNPEACEの大向勲理事長がお願いして、お話をうかがうことになりました。この日、会場では劇「三田空襲を忘れない」も上演され、仲畑さんはそのあとにお話をされました。聞き手は大向理事長です。
証言の要約(時系列)
空襲の前
- 仲畑さんのお父さんは、昭和18年か19年ごろに出征しました。地区の神社にお参りしたあと、国防婦人会の人たちなどに日の丸の旗で見送られ、三田駅まで歩いて行ったそうです(動画 45:22ごろ〜)
- 会場では、昭和18年に、お母さんの実家の前の広場で撮った写真が紹介されました。いちばん小さな帽子の子が仲畑さん、学生服姿の子がお兄さんです。写真のいちばん前には、2歳年上の中嶋宏次さんも写っていました(54:52ごろ〜)
1945年7月19日
- 空襲警報が鳴り、学校から下校の指示が出て、子どもたちは家へ向かいました。仲畑さんは、小学生たちと同じ列で歩いていました。中嶋宏次さんも、インタビューで「幼稚園の子もいっしょだった」と話しています(48:11ごろ〜、49:31ごろ〜)
- 飛行機は、南より少し西の方から、北東に向かって低く飛んできました(50:06ごろ〜)
- 6年生の上級生に「入れ」と言われ、仲畑さんは田んぼのそばの小さな水路に伏せました。仲畑さんが伏せたのは、10メートルあまりの道をわたった南側、線路に近い側でした(50:32ごろ〜)
- お兄さんは、道の北側から逃げきれずに伏せていて、弾が体に当たりました。仲畑さんがその場を通ったとき、お兄さんはもう動かず、亡くなっていたといいます。「その様子が、今も頭にこびりついている」と仲畑さんは語りました(51:17ごろ〜)
- 大向理事長は「5歳のときの映像です」と、その記憶の重さを会場に伝えました(51:58ごろ〜)
※仲畑さんは、空襲をした飛行機を「グラマン」と話しています。杉山雅崇さんの調査で、三田を襲ったのは硫黄島から飛来した米陸軍のP-51戦闘機だとわかっています。詳しくは「三田空襲とは?」をご覧ください。
お兄さんが残した本
- 4歳年上のお姉さんから聞いた話として、お兄さんは、厚さ5センチほどの本を毎日少しずつ読んでいる途中だったことが紹介されました(58:42ごろ〜)
- お兄さんが亡くなったあと、お母さんはその本を、お兄さんの供養として、毎日仏壇の前で読み聞かせていたそうです。ただ、お母さんは戦争の話を、仲畑さんには一切しなかったといいます(59:52ごろ〜、1:01:43ごろ〜)
劇を見て、そしていま伝えたいこと
- 高校生が演じた劇「三田空襲を忘れない」について、仲畑さんは「自分が感じていたことを、細かいところまで演じて表してくれていた」と感銘を受けたと話しました(52:37ごろ〜)。劇については「劇『三田空襲を忘れない』とは?」で紹介しています
- 「今も世界では戦争があり、日本でも人の命がいとも簡単に失われる事件や事故があります。安心できる世の中にしてほしい」と願いを語りました(1:04:13ごろ〜)
- そして若い世代に向けて、「社会に出たら、世の中のために一生懸命がんばってほしい」とエールを送りました(1:04:57ごろ〜)
仲畑さんと同じ列で空襲にあった中嶋宏次さんの証言や、この日のピースラリー2025の記録もあわせてご覧ください。
動画を見る
仲畑さんのお話は、動画の42:40ごろからです。
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