SUNPEACEは、三田空襲の体験者に話をうかがい、その様子を動画に残してきました。この記事では、2022年7月17日に収録した志儀喜代美さんのお話「三田空襲×戦時中のくらし」(約53分)を紹介します。それまでSUNPEACEがお話をうかがった体験者はみな男性だったことから、「女性の方からお話をうかがいたい」とお願いした回です。戦争中の子どもたちのくらしが、ほかの動画にはないほどくわしく語られています。
この動画でわかること
- 父やおじが戦地に行き、祖父母・母・妹と暮らした、戦争中の家族のようす
- 靴の配給、新聞紙での習字、しらみとDDT、よもぎ取りなど、戦争中の学校と子どものくらし
- 7月19日、避難の途中で土手のくぼみに伏せ、「白いカバンを早く隠せ」と怒鳴られたこと
- 8月15日、母の実家で、厳しい祖父がラジオの前で泣いていた姿
- 「戦争によって幸せになる人は一人もいません」という、志儀さんのメッセージ
証言者の紹介:志儀喜代美さん
志儀喜代美さんは、1945年7月19日、三田国民学校の3年生として空襲を体験しました。のちに小学校の先生となり、三輪小学校の教頭をつとめていたころには、平和登校日に向けて、三田空襲をもとにした平和劇の脚本を自分で書き、先生たちで演じたこともあります。聞き手のSUNPEACE・大向勲さんは、初任の三輪小学校で志儀さんにお世話になった教え子にあたる先生で、およそ30年ぶりの再会となりました。
証言の要約(時系列)
戦争中の家族
- 志儀さんの父は、志儀さんがやっとお座りができるようになったころに召集され、朝鮮に渡りました。3年ほどして帰ってきたとき、志儀さんは軍服の人が家の前を通ると「お父さんや」とついて行き、家の人を困らせたと、のちに母や祖母から聞いたそうです(動画 12:01ごろ〜)
- 出征する人の家の前には、名前を書いたのぼりが立てられていたのを覚えています。父もおじも戦地に行っていた間、家族は祖父母と母、志儀さん、妹でした(15:00ごろ〜)
- 飛行機を作る材料が足りなくなり、お寺の鐘や、家庭の火鉢・花瓶・洗面器・たらい、火箸まで差し出しました。祖母は「大事な息子が戦地に行っているのだから」と、指輪やかんざしまで出したといいます(11:17ごろ〜)
- 警戒警報が出ると、明かりが外に漏れないように電灯に布をかぶせました。家の前の防火用水を使ったバケツリレーの訓練も、よく見た風景だったそうです(16:05ごろ〜)
- 家にカメラがなかったので、よく写真屋さんで写真を撮り、戦地の父への慰問袋に入れて送っていました(18:07ごろ〜)
戦争中の学校と子どものくらし
- 当時は、男子だけの組と女子だけの組に分かれていました。疎開してくる子がどんどん増えて教室が足りなくなり、低学年は午前と午後に分かれる二部授業でした(5:41ごろ〜、9:05ごろ〜)
- 校庭は、子どもが集まる場所だけを残して畑になり、さつまいもや南京(かぼちゃ)が植えられていました。三田小学校の校舎には、疎開してきた軍需工場も入っていました(18:51ごろ〜)
- 靴は配給制で、1か月に1つのクラスに2、3足しか来ませんでした。ふだんはわら草履で、雨の日には草履が傷まないように、脱いで裸足で歩く子もいました(19:15ごろ〜)
- 習字の練習用の紙がなく、古い新聞紙を切ってとじ、白いところがなくなるまで何度も練習しました(20:23ごろ〜)
- 女の子の髪にはしらみがわき、定期的に一列に並ばされて、頭が真っ白になるほどDDTをかけられました(21:01ごろ〜)
- 学校から帰ると、班長に連れられて川の土手へよもぎを取りに行きました。薬にするための彼岸花の球根掘りには一人ずつ量の決まりがあり、低学年でうまく掘れない志儀さんの代わりに、祖父母が掘ってくれたそうです(22:21ごろ〜)
- よく食べたのは、さつまいものつるをきんぴらのようにしたもの。おやつは、大麦をいって粉にした「はったい粉」で、くしゃみをして顔じゅう粉だらけになり、みんなで大笑いしたこともあったといいます(25:25ごろ〜)
1945年7月19日
- 空襲警報が出ると、全員が運動場に集まって地区ごとに並び、決められた場所へ逃げることになっていました。志儀さんの地区の避難先は、今のふるさと学習館の裏にあった竹やぶで、何度も練習していました(27:53ごろ〜)
- その日の午前中、空襲警報が出て、みんなで竹やぶを目指して走り出しました。ところが、校門の前の橋を渡りかけたとき、もう飛行機の音が聞こえてきました(28:31ごろ〜)
- 橋を渡った左の、桜並木の土手にあったくぼみに「早く伏せろ」と言われ、みんなが倒れ込みました(28:55ごろ〜)
- 志儀さんの肩掛けカバンは、母が自分の帯の芯をほどいて作ってくれたもので、前の晩にできたばかりでした。白は目立つので、ふだんはよもぎの汁で草の色に染めていましたが、その日は染める間がなく、「帰ったら染めてあげるから、今日だけこれで」と持たせてくれたものでした(29:18ごろ〜)
- くぼみの入り口近くにいた志儀さんに、たぶん先生だと思われる人が「そこの白いカバン、早く隠せ」と怒鳴りました。その声は今も耳の底に残っているといいます。志儀さんは半分泣きながら必死でカバンを抱え、大池の向こうから飛んできた飛行機が頭の上を通り、三輪の方へ過ぎていくのを感じていました(30:26ごろ〜)
- 飛行機はとても低く飛んでいて、「乗っている人の顔が見えた」と言う子もいました。「あの時は本当に、助からないと思いました」(31:11ごろ〜)
- 三輪国民学校の子どもたちが亡くなったことは、いつ聞いたかは覚えていないものの、あとで知ったそうです(31:57ごろ〜)
※動画の中で、空襲をした飛行機の機種は語られていません。その後の調査では、三田を襲ったのは硫黄島から飛来した米陸軍のP-51戦闘機とみられています。詳しくは「三田空襲とは?」をご覧ください。
終戦の日
- 8月15日はお盆で、母と妹と、今の加東市にある母の実家へ向かいました。相野駅から川沿いの道を、3歳の妹を母と交代でおんぶしながら歩きました。空にはまだ飛行機が飛んでいたといいます(32:44ごろ〜)
- 昼ごろに母の実家に着くと、みんながラジオの前に座っていました。とても厳しい人だった祖父が、ラジオの前で涙をぼろぼろこぼして泣いている姿に、子ども心にびっくりしたそうです(33:55ごろ〜)
- ただ、父はまだ帰ってきていなかったので、「すべてが終わった」という感じは持てなかったといいます(35:29ごろ〜)
いま伝えたいこと
- 「戦争は、尊い一人ひとりの命を奪ってしまうし、長い時代をかけて培ってきた文化も壊され、美しい自然も破壊されます。戦争によって幸せになる人は一人もいません」(38:18ごろ〜)
- 「このような悲惨な戦争を起こさないように。今の平和が、多くの犠牲の上に成り立っていることを忘れず、この平和が長く続けばいいと思います」(38:38ごろ〜)
動画の後半(40:41ごろ〜)では、ちめいど雄介さんが、中嶋宏次さんと空襲の道を歩いた経験から生まれた「あの空を忘れない」と、「やさしい風が吹くまち」を演奏しています。
