SUNPEACEは、三田空襲の体験者に話をうかがい、その様子を動画に残してきました。この記事では、中嶋宏次さんの証言を収めた2本の動画を紹介します。1本目は、2018年8月19日、中嶋さんと一緒に空襲のあった道を実際に歩いた「体験者(中嶋宏次氏)と歩く三田空襲」(約10分)。2本目は、同じ年の12月30日、郷の音ホールで開いた「PEACE RALLY FINAL」でのトーク(約13分)です。
この動画でわかること
- 警戒警報のあと、子どもたちは2列に並んで集団で下校していたこと。列には、町から疎開してきた子もいたこと
- 飛行機が見えたとき、上級生が「伏せろ」と叫び、みんなが道に伏せたこと
- 弾が雨のように降り、中嶋さんと同じ列に並んでいた子どもが亡くなったこと。中嶋さんとの距離は、わずか数メートルだった
- 中嶋さんが、犠牲になった方々の場所を地図に描き、語り部として伝え続けていること
- 「二度とこのようなことが起きない世の中に」という、中嶋さんのメッセージ
証言者の紹介:中嶋宏次さん
中嶋宏次さんは、1945年7月19日、三輪国民学校(現在の三輪小学校)の2年生として空襲を体験しました。トークの聞き手の紹介によると、劇「三田空襲を忘れない」のもとになった手記は、中嶋さんのお父さんが書いたものです(手記については「中嶋義秋さんの手記『空襲罹災記』を読む」で紹介しています)。中嶋さんは、同窓生の記念の冊子に「我、戦争の語り部とならん」という題で文章を寄せ、空襲の体験を語り伝える活動を続けてこられました。聞き手はSUNPEACEの大向勲さんです。
証言の要約(時系列)
動画1:体験者と歩く三田空襲(2018年8月19日)
- その日は警戒警報が鳴り、そのあと解除になりました。また飛行機が来るかもしれないので、子どもたちは校庭に並ぶように言われ、集団で下校することになりました(動画 1:59ごろ〜)
- 子どもたちは2列に並んで歩きました。先頭は5、6年生の上級生で、2年生の中嶋さんは真ん中かその少し前。幼稚園の子もいっしょで、14〜15人の列でした(2:28ごろ〜)
- 列の中には、町から親戚をたよって疎開してきた子もいました。安全な田舎だと思って、親元を離れて来ていた子どもです(3:53ごろ〜)
- 当時の道は、今の半分ほどの幅の土の道でした(4:40ごろ〜)
- 飛行機が見えると、上級生が「伏せろ」と言い、みんなが道に伏せました。伏せたまま見ると、飛行機がすぐそこまで来て、あたりに弾が雨のように降ってきたといいます(5:05ごろ〜)
- この場所で、同じ列に並んでいた子ども2人が亡くなりました。中嶋さんは「まさかと思った」「数メートル離れただけだった」と語っています(6:05ごろ〜)
- そのあとは無我夢中で、みんな小走りで家に帰ったそうです(6:27ごろ〜)
動画2:PEACE RALLY FINAL のトーク(2018年12月30日)
- 下校のときは、男の子と女の子が別々の集団に分かれて校庭に並び、遠い地区から順に帰りました。男の子が最後だったといいます(動画 1:46ごろ〜)
- トークでは、中嶋さんが小学2年生のころの写真や、中嶋さんが自分で描いた当時の三輪小学校のまわりの地図が紹介されました。地図には、犠牲になった方々がいた場所に1〜5の番号がつけられています。その中には、疎開してきていた女の子もいました(2:59ごろ〜)
- 中嶋さんが伏せたのは、田植えをしてまだ日がたたず、水がたくさんたまっている田んぼのそばでした。米軍機が機銃掃射のようすを撮った映像を見ると、そのときのことを思い出すといいます(7:03ごろ〜)
- 会場では、三輪会館から借りた、弾が突き抜けた穴の残る品も紹介されました。聞き手は「物言わぬ証言者」と表現しています(8:34ごろ〜)
- 最後に中嶋さんは、「戦争は、普通に生活している人々の暮らしもおびやかし、多くの尊い命が失われました。二度とこのようなことが起きない世の中にしなければなりません。一人ひとりが力を合わせることが必要です。少しでも平和の尊さを感じていただければと思います」と語りました(11:53ごろ〜)
※動画の中で、空襲をした飛行機の機種は語られていません。その後の調査では、三田を襲ったのは硫黄島から飛来した米陸軍のP-51戦闘機とみられています。詳しくは「三田空襲とは?」をご覧ください。
