平和活動 SUNPEACE

家族を失うということ――三田空襲の体験者が語った、弟たち、お兄さん、お父さん

あらせん(荒井隆一)あらせん
この記事の目次
  1. 岸田達男さん――開戦の日に生まれた弟、終戦の前の日に亡くなった弟
  2. 仲畑直さん――道をはさんで伏せた、7歳上のお兄さん
  3. 中後茂さん――顔を覚えていないお父さん
  4. 亡くなったあとも、続いていくもの
  5. 授業で使える問い
  6. 関連記事

1945年7月19日の午前9時45分ごろ、米軍のP-51戦闘機の機銃掃射で、三田では児童4人と女性1人が亡くなりました(くわしくは「三田空襲とは?」)。この記事では、体験者が語った家族のことを紹介します。

この記事では、SUNPEACEの動画の中から、家族を失った3人の体験者のことばをつなぎます。空襲で亡くなった家族、遠い戦地で亡くなった家族、食べ物の足りない中で亡くなった家族。失い方はちがっても、どの話にも、その人のその後の長い年月があります。

岸田達男さん――開戦の日に生まれた弟、終戦の前の日に亡くなった弟

岸田達男さんは、当時三田国民学校の5年生でした。2021年の動画で、「私ごとなんですが」と前置きして、2人の弟のことを語りました。

岸田さんの弟は、2人とも子どものうちに亡くなりました。すぐ下の弟が生まれたのは、昭和16年12月8日。太平洋戦争が始まった日です。お父さんは「昭和が平和でありますように」と願って、名前をつけました。けれども、その弟も亡くなります。「戦争で平和でなかったということです」と岸田さんは話します(動画 23:26ごろ〜)。

その下の弟は、終戦の前の日、8月14日に亡くなりました。翌15日は、天皇の玉音放送があるとされた日です。その日、岸田さんは弟のお葬式で墓地に向かっていました。2人とも、食べ物が足りない中で、栄養が十分でなかったといいます。赤ちゃんの弟には、ミルクもなく、わずかなお米をつぶして与えていたそうです(動画 24:39ごろ〜)。

2024年の動画でも、岸田さんはこの日のことにふれています。

国民はみな聞けと言われた放送でしたが、弟のお葬式と重なって、十分には聞き取れなかったそうです(動画 27:30ごろ〜)。

岸田さんは、三田の戦争の歴史を調べて書き残し、語り続けてきました。その力のもとの一つに、「弟たちの鎮魂」があると話しています(2021年の動画 35:21ごろ〜)。

仲畑直さん――道をはさんで伏せた、7歳上のお兄さん

仲畑直さんは、空襲のとき5歳で、幼稚園に通っていました。2025年12月の「ピースラリー2025」で、お兄さんのことを語りました。

あの日、仲畑さんは三輪国民学校の子どもたちと同じ列で家へ向かっていました(動画 49:31ごろ〜)。飛行機が低く飛んできたとき、6年生の上級生が「入れ」と、仲畑さんを田んぼのそばの小さな水路に入れてくれました。仲畑さんは道の南側に伏せて助かりました。7歳上のお兄さんは、道の北側で伏せていて、弾に当たって亡くなりました(動画 50:32ごろ〜)。

そのときの様子は、今も頭から離れないといいます。聞き手の大向勲さんは、会場に向かって「5歳の時の映像です」と語りかけました(動画 51:49ごろ〜)。

会場には、昭和18年に撮った1枚の写真が映されました。いちばん小さな帽子の子が仲畑さん、学生服の子がお兄さんです。大向さんは、こんな平和な景色が写されている、その2年後のことなのだ、と話しました(動画 54:52ごろ〜)。

お兄さんには、読みかけの本がありました。厚さ5センチほどの本を、毎日少しずつ読んでいる途中で、あの日をむかえたのです。お兄さんが亡くなったあと、お母さんはその本を、供養として毎日、仏壇の前で読み聞かせていたそうです。これは、仲畑さんがお姉さんから聞いて知ったことでした(動画 58:42ごろ〜)。お母さんは、仲畑さんにはこの話を一切しなかったといいます(動画 1:01:43ごろ〜)。

仲畑さんも、こうした話を人に語ることはなかったそうです(動画 1:01:01ごろ〜)。語られなかった80年の重さが、この動画にはあります。

中後茂さん――顔を覚えていないお父さん

中後茂さんは、当時三田国民学校の3年生でした。2023年の座談会で、遠い戦地で亡くなったお父さんのことを話しています。

お父さんが出征したのは、中後さんが3歳くらいのときです。その2、3年後に戦死しました。お父さんの顔は覚えていません。あとで写真を見せられて「これあんたのお父さんですよ」と言われ、初めて知ったそうです(動画 37:12ごろ〜)。

家は農家で、男手がありません。お母さんやおばあさんと一緒に働く毎日になりました。「私の人生も大きく変わってきましたね」と中後さんは話します(動画 37:34ごろ〜)。

亡くなったあとも、続いていくもの

同じ座談会の最後に、中後さんは、戦争は人の命まで奪ってしまう、私も父親の命まで奪われてしまった、と語りました。それを受けて、志儀喜代美さんが続けました。「人の命ほど大事なものはないと思うんですよ」(動画 46:51ごろ〜)。

授業で使える問い

  • 岸田さんのお父さんは、戦争が始まった日に生まれた子に、平和を願う名前をつけました。そのとき、どんな気持ちだったと思いますか。
  • 仲畑さんのお母さんは、なぜ毎日、仏壇の前で本を読み続けたのでしょう。また、なぜそのことを仲畑さんに話さなかったのだと思いますか。

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あらせん(荒井隆一)
この記事を書いた人 あらせん(荒井隆一)

小学校校長。書家。ことわざの達人。SUNPEACE 理事長、情熱教師塾 塾長。第63回読売教育賞 最優秀賞。著書『いじめ2.0〜新しいいじめとの戦い方〜』。

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