1945年7月19日の午前9時45分ごろ、兵庫県三田市を米軍のP-51戦闘機がおそい、児童4人と女性1人が亡くなりました(くわしくは「三田空襲とは?」)。この日の前にも、子どもたちには毎日の暮らしがありました。学校に通い、遊び、笑い、おなかをすかせる毎日です。
この記事では、SUNPEACEが動画に残してきた体験者の証言を、「子どもの暮らし」というテーマでつないでみます。空襲の話ではなく、その前の、ふつうの一日の話です。一人ひとりのお話は、それぞれの証言の記事でくわしく紹介しています。
靴は、クラスにわずかしか来なかった
志儀喜代美さんは、空襲のとき三田国民学校の3年生でした。2022年の動画で、戦争中の暮らしを細かく語ってくれました。
物がだんだんなくなり、靴は配給制になりました。ひとつのクラスに来るのは、1か月にわずかな足数だけでした。出席簿の順番に「今日来た靴は誰と誰」と決まり、ほかの子は次が来るまで待ちました(動画 19:15ごろ〜)。「本当に靴は貴重品でした」と志儀さんは話します。やっと手に入っても、質が悪くてすぐ破れたそうです(動画 19:49ごろ〜)。
ふだんは、わら草履です。雨の日には、草履がぬれて傷まないように脱いで、はだしで歩く子もいました(動画 20:00ごろ〜)。自分の足より、草履のほうを大事にしたのです。
新聞紙の習字、頭のしらみ
習字の練習用の紙もありません。古い新聞紙を切ってとじ、白いところがなくなるまで、1枚に何度も書きました(動画 20:23ごろ〜)。
女の子の髪には、しらみがわきました。勉強していると、前の席の子の頭にいるのが見えたそうです。お風呂にもなかなか入れず、のみもたくさんいました(動画 21:01ごろ〜)。女の子は定期的に一列に並ばされ、頭が真っ白になるほどDDTという殺虫剤をかけられました。志儀さんは、「主に戦中」のことで、戦後も続いていたのかもしれないとふり返っています(動画 21:37ごろ〜)。
※DDTは、戦後の占領期に広く使われたとされています。志儀さんは、戦時中のこととして記憶しています。
学校から帰ると、よもぎ取り
放課後も、自由ではありません。学校から帰ると、班長が地区の子を全員連れて川の土手へ行き、よもぎを取りました。志儀さんは、薬に使われたのだろうと話します。秋には、やはり薬になるという彼岸花の球根掘りです。こちらは決められた量があり、低学年の志儀さんには掘れないので、おじいさんとおばあさんが代わりに掘ってくれました(動画 22:21ごろ〜)。
さつまいものつると、はったい粉
よく食べたのは、さつまいものつるです。きんぴらのようにしたもので、志儀さんは今でも食べてみたいと思うほど、なつかしい味だといいます(動画 25:25ごろ〜)。おやつは、大麦をいって粉にした「はったい粉」。紙に包んでもらって遊びに行き、なめるときにくしゃみをすると、粉が顔じゅうに飛びます。みんなで大笑いしたそうです(動画 26:11ごろ〜)。戦争の中にも、子どもの笑い声がありました。
岸田達男さん(当時5年生)の心に残っているのは、においです。2021年の動画で話しています。
ふだんは麦ごはんや芋ごはん、芋のつるばかり。だから、炊きたての白いごはん「銀シャリ」のにおいが、76年たっても忘れられないといいます(動画 20:09ごろ〜)。
川をはさんだ言い合い
2025年の第1回「三田空襲を聞く会」でも、志儀さんは同じころの話をしています。
この日の話でも、志儀さんは、人数の多いクラスにわずかな足数しか来ないので、次に自分の番が来るのはずっと先になると説明しました(動画 47:39ごろ〜)。
よもぎ取りには、こんな話もあります。三田国民学校の子が川の土手でよもぎをつんでいると、向こう岸には三輪国民学校の子たちが同じようにつみに来ています。すると、川をはさんで言い合いが始まるのです。今はどの学校の子も仲がいいのに、あのころはなぜ仲が悪かったのかな、と志儀さんはふり返りました(動画 50:21ごろ〜)。どこにでもいる、子どもたちの姿です。
運動場は畑だった
岸田さんは2024年、三田小学校の運動場に立って、当時のことを語りました。
表の運動場は、ほとんど全部が畑でした。いちばん多く植えたのは、さつまいもです。うねを作るのは子どもたちでした。長い年月、踏み固められた土は、重いつるはしで掘っても、なかなか掘れません。手にはまめができました。「食べる豆よりも、この豆の方が大きいな」と岸田さんは話します(動画 3:47ごろ〜)。
とれたものは、自分たちのものではなく学校のものです。給食はありません。だれもがおなかをすかせ、弁当どろぼうまで起きるほどでした(動画 6:16ごろ〜)。肥料には下肥(人のふん尿)を使っていたので、おなかに回虫のいる子が多く、虫くだしを飲まされたそうです(動画 7:43ごろ〜)。
毎朝、奉安殿に頭を下げて
学校には奉安殿がありました。天皇と皇后の写真をまつった建物です。登校すると、まずここに深く頭を下げます。下校のときも頭を下げ、さらに東を向いて、皇居に向かっておじぎをしました(動画 9:15ごろ〜)。
朝礼では、校長先生から戦争の話を聞きました。戦争の終わりが近づくと、勉強はそっちのけになります。体育では軍隊式の歩き方を習い、大陸へ行っても体がもつようにと体をきたえました。教科書も、軍事教育を進めるような話に変わったそうです(動画 23:39ごろ〜)。
「大きくなったら兵隊さんになる」
当時の子どもたちは、将来をどう思っていたのでしょう。2023年の座談会で、同じ三田国民学校に通っていた方々が話しています。
内田昇さん(当時3年生)は、「とにかく大きくなったら兵隊さんになる」と思っていたと話します。ほかにどんな仕事があるかを考えることも、ほとんどなかったそうです(動画 34:27ごろ〜)。脇田孜さん(当時4年生)は、校長先生が「必ず神風が吹く」「日本は絶対に負けない」と話していたことを覚えています(動画 35:28ごろ〜)。
岸田さんも、自分が受けた教育を「軍国主義でした」と言います。幼い頭の中では、「お国のために死ぬのが、当たり前」でした。それが戦争に負けると、「教育が、コロッと変わりました」(さきほどの岸田さんの運動場の動画 30:44ごろ〜)。
授業で使える問い
- 靴が1か月にわずかしか来ないクラスだったら、自分ならどんな順番で配りますか。今の自分の持ち物で、なくなったらいちばん困るものは何ですか。
- 内田さんは「大きくなったら兵隊さんになる」と思っていました。子どもがそう思うようになったのはなぜでしょう。毎日の学校生活のどこに、その理由があったでしょう。
