1945年7月19日の三田空襲で、子どもたちや町の人たちがいた場所を、地図で見られるようにまとめました。場所の説明は、このブログの記事(体験者の証言の解説、中嶋義秋さんの手記、杉山雅崇さんの分析)に出てくるものだけを使っています。
地図のリンクは、いまの地名や学校の場所を示す目安です。80年前の道や家の位置とは同じではありません。正確な場所がわからないところは、そう書いています。亡くなった方々がいた場所は、このページでは地図に示していません。
三輪で
三輪国民学校(いまの三輪小学校)
空襲の日、三輪国民学校の子どもたちは、警報のあと校庭に並び、地区ごとに集団で下校しました。中嶋宏次さん(2年生)の列は2列で、14、15人。幼稚園の子もいっしょでした。2025年7月19日の追体験ツアーは、この学校の、国民学校のころの門から出発しました。
下校の道(三輪小学校から桑原付近まで)
中嶋宏次さんたちが歩いた下校の道です。当時は土の道で、幅はいまの半分ほどでした。2018年8月19日、SUNPEACEは中嶋さんと一緒にこの道を歩き、2025年7月19日には、高校生・大学生らと同じ道をもう一度歩きました。
高次(たかすぎ)
手記によると、高次では農家4戸が全焼しました。体験者の西浦道雄さんは、高次の少し小高いところで用水路に飛び込み、飛行機が去ったあと、自分の家が燃えているのを見ました。
三輪町役場
中嶋義秋さんが働いていた役場です。手記によると、警戒警報がいったん解除になり、役場では会議を続けていたところでした。爆音とともに、役場前の電柱の碍子が割れ落ちました。義秋さんは高次の火事を見て町長に報告し、自転車で急報に走り回りました。
三輪会館(弾が突き抜けた半鐘)
三輪会館の半鐘には、弾が突き抜けた穴が残っています。入った穴と出た穴の高さの差は1.5センチで、飛行機がほとんど真横から撃つほど低く飛んでいたことがわかります。
三田の町で
三田国民学校(いまの三田小学校)
三田国民学校の子どもたちも、同じころ、地区ごとに並んで下校していました。志儀喜代美さんは校門の前の橋を渡りかけたところで、内田昇さんは九鬼邸の前あたりで、岸田達男さんは大池の堤の下まで来たころに、飛行機に出会いました。
新しい記事を、メールで受け取れます(記事を出したときだけ・いつでも解除できます)→
同じ日に
高平
同じ日、高平の上空で空中戦があり、日本の戦闘機が撃ち落とされて、高平小学校の近くの竹やぶに落ち、パイロットが亡くなりました。岸田達男さんはこの飛行機を「零戦」と話していますが、杉山雅崇さんの分析で紹介された地元の記録では、八尾から飛び立った陸軍機とされています。
中嶋宏次さんの手書きの地図
中嶋宏次さんは、亡くなった方々がいた場所に1から5の番号をつけた地図を、自分で描いて語ってきました。この地図は、2018年12月30日のトークの動画(4:23ごろ〜)で見ることができます。

